北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第1節 地方自治制の再編成

1 地方改良運動から民力涵養運動へ

郡の模範村に選ばれた石戸村

写真93 石戸村の事蹟

(『国民新聞』明治42年10月17日より引用)

写真94 模範町村(六) 石戸村

(『埼玉新報』明治43年7月7日より引用)

そこで各町村は県・郡の指示事項をふまえて各々地方改良事業に取り組んだ。なかでも石戸村は、鴻巣町(現鴻巣市)・新倉(にいくら)村(現和光市)とともに明治四十三年(一九一〇)五月、北足立郡の優良村に選ばれ、内務省に具申された模範村であった(『埼玉新報』明治四十三年六月三十日)。『国民新聞』は、その前年の十月に二回にわたって「石戸村の事蹟」が「模範村に足る」ものであることを報じている(十月十七日と二十日)から、当時、すでに村長(吉田時三郎)・助役(新井勇左衛門)・校長(上野多三郎)の三人を中心とする「石戸村の事蹟」は多くの人の注目するところとなり、広く模範村としての評価を得ていたわけである。こうした衆人の評価がやがて公的な評価へとつながり、石戸村は名実ともに北足立郡の模範村となった。
『埼玉新報』は明治四十三年六月から七月にかけ、一〇回にわたって「北足立郡模範町村事蹟」を連載した。石戸村の事蹟については、その第六・七・八の三回に紹介されている。第六回(七月七日)には、まず「村の状況」について
本村は鴻巣町と桶川町の中間西方に位置する村落にして石戸宿・荒井・高尾・下石戸上・下石戸下の五大字より成り、戸数六百三十一、人口四千百二十四人を有す。明治廿八年村会議員配置の事より役場吏員と村民との軋轢(あつれき)を生じ、村内二派に岐(わか)れて紛擾(ふんじょう)を来し村政大に紊(びん)乱したる結果縲紲(るいせつ)者数名出し、為めに行政機関を停止し村長職務代理者を派遣したるも数月にして辞職し、村政益々困難を来たし、村長の交迭(こうてつ)二回に及び、遂に卅四年十二月に至り現村長吉田時三郎氏就職後、村治の改善に努めたるを以て民情大に融和(ゆうわ)し現今又昔日(せきじつ)の観(かん)を止(とど)めず、一般に質朴勤倹(しつぼくきんけん)にして各本業に精励せり。而(しこう)して其職業を大別すれば農業四百九十五戸、就業者千九百三十四人、他は雑業に従事せり

と述べ、さらに
村吏員と住民との間柄は極めて円満にして、吏員の指示命令は能(よ)く行はれ、敢(あえ)て違背(いはい)する者なし。住民・吏員が経営する事業は悉(ことごと)く翼賛(よくさん)して之れが実行に力を致せり。今其一例を挙(あ)ぐれば、小学校の新築は前村長時代即十数年前に決議せざるが為め建築すること能(あた)はざりしが、吉田村長就職以来、合併新築の必要を鼓吹(こすい)せし結果と協同心の発達とは、遂に従来の三校を廃し一大校舎を新築し、高等科をも併置するに至れり。此挙二十七人の新築委員は能く村長を助けたるのみならず、村民も能く是が新築資金一万七千円の工費を負担し、以て其目的を達せしめたるが如き、又耕地整理執行に方(あた)り村内の有志は村長と共同して之れが実行に努力したるが結果、四十一年三月起工し四十三年四月三十日登記ヲ完結し、整理事務を閉鎖(へいさ)するに至れり。右耕地整理事務の完結するや剰余(じょうよ)金四百十一円十一銭あるを以て、村長たる整理委員長は総会に謀(はか)りて、寧(むし)ろ整理地区の水利を便ならしめんが為めに、普通水利組合を設置するの優れるに若(し)かずと為し、該剰余金(がいじょうよきん)は遂に之(これ)を水利組合に寄附せりと云ふ。今春、本県巡回文庫を小学校内に開庫するや村内有志は、当局と共に毎夜臨席し便宜(べんぎ)を与へたるを以て、大に閲覧者を感せしめ為れば、稀(まれ)に見る良成績を挙げたり。

と述べている。翌七月八日の第七回には、村吏員と村議の関係、村吏員の在任年数と業績、村吏員の服務、事務文書の処理等について、その成果を詳(くわ)しく紹介している。九日の第八回には、会計簿の整理と公債償還(しょうかん)及び基本財産の状況について、その模範ぶりが披露(ひろう)されている。会計簿の整理については、「各種出納簿は精密に記載し、不都合の廉(かど)なし村長は隔月末に出納の例月検査を執行し、また村会議員の立合をもって出納の臨時検査を執行し」、誤りなきを期した。そして、その次に明治四十年度から四十二年度に至る三年間の国税・県税・村税の納入調査表を掲(かか)げている。それによると、国税・県税については各年度とも納期までに完納されているが、村税については完納されていない。四十二年度においてはわずか五五パーセントにすぎない。しかし、それは「中産以下の者納期後に至りて納税するを以て成蹟(ママ)不良」なのであって、「当該年度を過ぐるが如きことなし」とのことであった。公債償還(しょうかん)については、いずれも返済計画に基づいて順調に返還が行われていると報じ、基本財産の蓄積(近代№四〇)については、明治三十六年(一九〇三)に条例を定めて発足したが、その起源は村長・助役等が自己の報酬の幾分を基本財産として寄附したことであって、以来年々国・県税の交付金、手数料及び村費より金三〇円(「条例」では毎年度二五〇円以上)蓄積し、現在銀行預金として一ニ九八円五四銭を有する。村罹災(りさい)救助資金の蓄積は一時停止したが、同四十年度から再開し、現在の預金高は五七三円九七銭九厘であった。学校基本財産については、未だ蓄積(ちくせき)規定が設けられていない(「規定」が設けられたのは明治四十四年四月六日)が、寺院に説いて三段一畝一二歩を基本財産として設定した。そのうち一段七畝一五歩は、日露(にちろ)戦争記念として生徒に松苗を植えさせ、生徒の実習地にあてた。また、同四十二年十月十七日、小学校設備ほかの模範との理由で県より下賜(かし)された金一〇〇円その他を資金として学校基本財産を設置した。そして同四十三年度からは、国税金五〇円を蓄積することとした。その他部落有財産についても、その統一化が図られた。
『埼玉新報』は、郡役所の調査に基づく石戸村の模範事蹟(じせき)をこのように紹介した。その内容から明らかなように、石戸村の事蹟は、先にみた知事訓令の趣旨に忠実に従っている。石戸村の模範村ぶりは紙上に紹介されたものに止(とどま)らず、ほかにも各種の改良事業を率先遂行した。明治四十二年(一九〇九)二月十一日(紀元節、今日の建国記念日)に創刊された『石戸時報』もその一つである。これは「教育上、行政上、勧業上、衛生上、有(ママ)ラユル方面ヲ記載シ村内一般ニ知悉(ちしつ)セシメ以テ家庭トノ連絡或ハ智識(ちしき)ノ増進ヲ計リ石戸村発展ヲ計ル」(『石戸村郷土誌』)ことを目的として発刊されたものであって、これにも吉田村長の施政方針がこめられている。石戸信用販売購買利用組合長を兼務した彼は、組合員に貯金を奨励するために「新案貯金箱」の設置を提唱し、実施させた。この新案貯金箱というのは、縦一尺三寸~横七寸五分、深さ二寸の大きさで、内部は三〇区画を設け、一区画をもって一人の貯金区とし、蓋(ふた)の表面には一貯金区ごとに金銭を出し入れできる装置をつけ、個々に鍵を取りつけた体裁(ていさい)のものである。そしてこの貯金箱は、二、三〇戸をして一組とし、各組に一箱を備え、毎月これを組中に回して貯金を投入させ、最後に投入した組合員がその組の貯金取扱者のもとに持参し、持参者立会の上開函(かいかん)して各自の貯金額を貯金取扱簿に記入し、金額とともに組合に持参するというものである(『埼玉新報』明45・5・9)。
こうした行政主導型の地方改良運動に対して、疑問や批判がなかったわけではない。先に述べたように、『埼玉新報』は一町二村の北足立郡の模範町村について、逸早(いちはや)くその詳細を報告したが、同紙の福島記者は、郡の模範町村の指定の仕方に疑問をもった一人であった。そのことは明治四十三年(一九一〇)七月十五日の同紙の「北足立郡模範町村に就(つい)て」にくわしく述べられている。その紙面において彼は、「今や行政の根本とするは消極的の事務整理にあり、すなわち上級官庁よりの命令を遵守(じゅんしゅ)し、真面目に施政の方針を定め、着々事務を進捗(しんちょく)せしむるにあり」と考えているが、もともと「自治行政の根本とする処は、現状を保持するよりは寧(むし)ろ発展せしむるにあるが故に、消極的事務整理と云ふが如きは行政本来の目的にあらず」と批判した。つまり、模範町村の選定が自治行政の本来のあり方との関係においてなされるのではなく、官僚主導型の消極的事務整理という観点からなされていることへの不満の表明であった。

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