北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第3節 国民教育体制の拡充

1 小学校の拡充と教育の新動向

諸学校行事の慣例化

写真112 岩殿山への遠足

大正5年(『石戸小学校60年史』P122より引用)

昭和二十年の太平洋戦争終結に至るまでの我が国の初等教育制度の基本構図は、明治二十三年(ー八九〇)十月の第二次小学校令と同三十三年八月の第三次小学校令によって設定されたといわれる。たしかに、これらの法規によって小学校は制度と内容の両面にわたって整備され、体制化された。それは教科教授の面のみではなく、訓練・訓育も学校教育の機能として重要視され、教科外にも及んだ。その代表的なものは儀式、運動会、遠足・修学旅行、学芸会、成績品展覧会などである。このうち儀式については、すでに前章の「学校儀式の成立」のところで触(ふ)れたので、ここではそれ以外の学校行事について述(の)べることとする。
儀式以外の学校行事のうち、最も早くから一般に慣例化されたのは運動会である。しかし、本市域の小学校の場合は遠足(修学旅行を含む)が最も早かった。すなわち、『中丸小学校八〇年史』P五九によると、高等科生を連れて石戸の蒲桜見学をしたのがその最初であって、時は明治三十一年(ー八九八)四月十六日であった。この見学を皮切(かわき)りに、翌五月一日には加藤校長自ら高等科生を引率して吉見の百穴と東松山の箭弓(やきゅう)稲荷神社に行き、さらに同年末、鴻巣の法要寺に日光東照宮模造展覧会が開かれると、やはり高等科生にこれを見学させた。もちろん、文字どおり徒歩での遠足であり、ぞうりやわらじでの往復であった。以後、しだいに遠足の教育的意義━心身を鍛練し、自然の観察・鑑賞、歴史的・文化的な名勝旧跡・施設の見学により、校内では得られないさまざまな教育的経験を習得させる学校行事として認識され、各学校において行われるようになった。義務教育が六年に延長された同四十年前後には遠足は学校行事の一つとして定例化し、学年によってその場所がほぼ特定された。翌四十一年に中丸尋常高等小学校を卒業した増島新吉は「昔の遠足といいますと、尋常一年生が別所の無量寿院、二年生が加納の天神様、三、四年生が吉見の八丁湖で、高等ー、二年生が百穴、三、四(ママ)年生が松山の箭弓様でした。ズック靴などありませんから、皆わらじで弁当をたくさん持って行きました。」(『中丸小学校八〇年史』P六三)と語っている。他の人からもほぼ同様のことが回顧(かいこ)されている。石戸小学校の場合遠足がいつごろから開始され、いつごろから慣例化したのか資料的に確認しにくいが、『石戸小学校六〇年史』のいくつかの回想を手がかりに勘考(かんこう)すれば、低学年は勝林辺のつつじ山か荒川土手、中学年は大間か吉見の土手、高学年は吉見の百穴か川越喜多院、高等科は岩殿山であった。こうした遠足の学年別パターンは、その後長く継続されたようで、昭和期の回想の中にも見出すことができる。

写真113 中丸尋常高等小学校の修学旅行

明治39年か東京(松村晴夫家提供)

今日いうところの修学旅行は、「遠足」より若干(じゃっかん)遅れ、明治三十五年(ー九〇二)ごろから始まったが、宿泊旅行という形で行ったのは四十年代に入ってからであった。はじめての東京一泊旅行に参加した長島寿郎(明治四十二年卒業・北本市宮内)は、「高等科を卒業する時、初めての東京一泊旅行がありました。浅草・日比谷・泉岳寺などを見学して歩きましたが、大変楽しいものでした。北本駅がありませんでしたので桶川駅まで歩きでした。」(『中丸小学校八〇年史』P三一八)と、中丸小学校開校八〇周年記念の関係者による座談会で語っている。同期の増島新吉(北本市北中丸)も同学校史に「初めての東京一泊旅行」の様子を寄せている。同じころ石戸高等小学校を卒業した新井甫(明治四十一年度卒・北本市荒井)は、「私の小学校時代」の中で「学校行事の中で一番楽しみが修学旅行であることは、今も昔も同じであろうが、当時は汽車がめずらしい時代で、わざわざ弁当もちで汽車見物に行く程だったので、汽車に乗っていくとなると二、三日はわくわくする大変なうれしさであった。目的地は妙義山で磯部鉱泉に一泊し、翌日は高崎連隊を見学した。」(『石戸小学校六〇年史Pーー八』)と語っている。その後大正何年からか定かではないが、高等科の修学旅行は中丸?石戸両校ともに日光一泊旅行、尋常科は日帰りで東京ないし横浜方面という形で慣例化された。
ところで、修学旅行のルーツは軍事訓練の一環(いっかん)としての「行軍(こうぐん)旅行」であって、明治十九年(一八八六)に東京師範学校で実施したのがその発端(ほったん)であるといわれる。最初は全員武装し野営(やえい)や射撃訓練を主とする軍隊まがいの行軍であったが、後に動植物・鉱物採集や地理・歴史の実地学習等を主とする修学旅行と「行軍」とに分離され、教育的な配慮に基づく修学旅行が一般に広まることとなった。文部省は、同三十三年暮れに師範学校?中等学校の修学旅行について、宿泊は最上級生に限り、年一回三泊以下とする基準を示したが、埼玉県は翌三十四年十一月、郡?町村小学校に対して修学旅行について注意を促(うなが)した(県行政文書明三二七三)。それによれば、修学旅行はあらかじめその用意を周到にし、その方法よろしきを得(う)るときは「教育上ニ稗益(ひえき)スルコト尠(すくな)カラス」。しかし、「修学旅行ヲ為スモノノ状況ヲ観察スルニ漫然多数ノ児童ヲ引卒シテ各地ヲ遊覧スルニ過キザルモノ多」く、「教育上実ニ遣憾(いかん)ノコトナルカ故ニ、自今小学校ニ於テ修学旅行ヲ為サントスルトキハ、可成(なるべく)同時ニ多数ノ児童ヲ引卒スルヲ避ケテ見聞ニ便ニシ、高等小学校第二学年以下ニアリテハ断然宿泊旅行ヲ止メ、高等小学校第三学年以上ニアリテモ尚(なお)三泊ヲ超エ」てはならないと戒(いま)しめた。そして同四十二年三月に至って、県は再び修学旅行の件について訓令し、「自今宿泊旅行ヲ為サシムへカラス、但(ただし)特別ノ事情アルトキハ高等小学校児童ニ限り、郡長ノ認可ヲ受ケテ宿泊セシムルコトヲ得」(県行政文書明三三五九)とした。さらに大正元年(ー九ーニ)十月には修学旅行について郡長に通達を発し、「物見遊山(ゆざん)ニ過キサル如キコト」のないよう再三にわたって注意した(県行政文書大一三四)。何度も同様の注意を発しているということは、県下の各学校において修学旅行が既に広く慣例的に行われていたことを示唆(しさ)すると同時に、現実に行われている修学旅行が、必ずしもその目的に適(かな)わず「物見遊山」に陥(おちい)っていたという二つの事実を明らかにしている。修学旅行が校外観察もしくはレクリエーションの行事として独立してきた経緯(けいい)からして、とかく「物見遊山」「観光めぐり」的性格を持ちやすいことも確かである。修学旅行が学校教育の一環(いっかん)として行われる以上、それが単なる「物見遊山」に終るべきでないことは言うまでもない。要は明確な教育的目的をもって実行するか否かであるが、この問題は修学旅行の歴史につねに絡(から)まりついてきた問題であった。しばしば「物見遊山」視された修学旅行も、校外観察の機会の少なかった当時の子どもたちにとつては、学校生活における最大の楽しみであった。多くの子どもたちにとって、一泊旅行は初めての経験であった。だから、たとえ「物見遊山」的であったとしても、修学旅行は子どもにとって大きな意味をもつものであった。

写真114 地域を挙げての運動会

大正10年(石戸小学校提供)

遠足や修学旅行と並んで運動会も学校行事として慣例化された。ー般的には日清戦争前後に戦意昂揚・士気鼓舞(こぶ)あるいは戦勝記念等の意味をこめて盛んに行われるようになり、そして日露戦争前後には、「如何なる学校に於ても必ず挙行せられ、学校に於ける確定事業のーとなる」(教育学術研究会編『小学校事彙』)に至ったといわれる。そのとおり市域内の小学校において運動会が開催されたのは、日露戦後の明治三十八年(ー九〇五)十一月であった(『中丸小学校一〇〇年史』P三一)。それは中丸尋常高等小学校であって、開催のタイミングからして日露戦勝記念の意味をこめたものと思われる。このころ、近隣の小学校でも運動会が開かれ、互いに他校生を招待し参観し合ったという。もちろん、各小学校の運動会には地域の人々が大勢参観し応援した。大正の半ばからは青年団も参加し村ぐるみの形となり、運動会は一学校行事というよりも地域ぐるみの一大イベントとなった。さらに大正の末ごろになると、連動会は次第に学校対抗競技会的性格を帯びるに至った。すなわち、従来招待された近隣校はただ参観するだけであったが、このころになると他校の運動会に参加して対抗競技をし、順位を競(きそ)い合うようになった。したがって、学校日誌をみると、十月から十一月にかけてはほとんど運動会関係の記事で占められている。その例を中丸小の大正十五年についてみると、次のとおりである。


写真115 校務日誌

(中丸小学校蔵)

写真116 同

十月十三日   尋六以上児童川田谷小運動会に参加
十月十四日   尋五以上児童、桶川小競技運動会へ参加、尋常科男子・高等科男子リレーに優勝
十月十五日   加納小、石戸小各体育競技会へ参加
十月十八日   青年団、鴻巣地区青年団運動会へ出場、全職員尋六以上児童応援す。
十月二十一日  尋六以上児童、栢間小競技運動会へ出場し、高等科リレー一等
十月三十一日  体育デー第一日、全児童北中丸氷川社、北本宿天神社、東間浅間社、宮内氷川社を参拝
十一月一日   体育デー第二日、尋一より高二までの全児童小体育競技会
十一月二日   体育デー第三日、児童、青年、処女の競技技テスト実施
十一月三日   体育デー四日、尋五以上児童鴻巣競技運動会へ参加
十一月十一日  高等科競技選手、馬室小運動会に参加し優勝旗獲得す
十一月十二日  尋三以上児童常光小体育競技会へ参加、中丸二十三点、石戸十五点、鴻巣十三点にて優勝旗獲得す
十ー月十五日  本校児童、青年団、処女会等の体育競技会  

この記録から明らかなように、十月中旬から十一月中旬までの一か月間は運動会オンパレードといった感じであって、その記事でうめ尽されている。選手は東奔(とうほん)西走して活躍し、多数の優勝旗やカップを中丸小学校に持ち帰り、常勝中丸小の名を長く四隣にとどろかせた。なお、中丸小では、艘作業も一段落して農閑期に入る十一月十五日をもって運動会の定例日とした。

写真117 地区対抗競技大会に優勝して

昭和5年(中丸小学校提供)

運動会と同時期に児童の成績品展覧会も開催された。最初は近隣校の展覧会に招待されて見学するだけであったが、明治三十八年(ー九〇五)ごろから毎年農閑期の二月に開催するようになった。中丸小学校では同四十一年二月十五日、十六日の二日間にわたって盛大に行われた。来会者は初日がー〇〇〇人、翌日がニニ〇〇人にも及んだという。その様子は、矢口政吉(明治四十一年卒、北本市古市場)の回顧談に詳しく述べられている(『中丸小学校八〇年史』P六五)。それによると、中丸小の展覧会は明治から大正期にかけて学校の一大慣例行事であって、毎年二月十五、六日の二日間開催する。展覧会の期間が近づくと、上級生が先生と相談して準備を始め、十三日にはまず教室の大掃除をし、午後から展示を開始して翌十四日に完了する。その晩は上級生十二、三人が展示作品の盗難を防ぐために学校に泊りこむ。出品作品は多種多様で習字・図画・地図などの授業作品から男子の手工品(わらじ、かましき、縄、ほうき、ちりとり、ぞうり、本立て)、女子の手芸品(編物、着物)、骨董品(こっとうひん)(刀、槍、掛軸、額、焼物)に及んだ。骨蕾品以外の児童の出品物は即売された。当日は地域の人々はもちろん、近隣校の児童も多数見学に来て、会場から溢(あふ)れるほどだった。だから、年に一度の展覧会は全校生徒の創造力が爆発して実に盛会であった。展示出品物からも知られるように、この行事は学校だけではなく、村をあげての一大行事であった。その後、鴻巣小学校を中心にし隣接する村々の小学校が参加した連合展覧会なども開かれた。この種の展覧会は石戸小学校でも開催された。
成績品展覧会と並んで三学期の主要な学校行事に学芸会がある。これはそもそも、学校の試験制度と関連して行われていた学業ないし教科練習会や、児童談話会などが試験制度の廃止(明治三十三年「第三次小学校令」)によって独立した形のものであるから、普段の学習成果の発表会という性質をもっていた。だからそれは教科内容の練習・応用を旨とし、その内容は、教科書や作文の朗読、唱歌、教育談話、理科実験等かなり広範囲に及んだ。こうした「おさらい」的学習行事を「学芸会」と呼ぶようになったのは、明治末期のころからであり、大正期になると、農村の学校にも普及し、毎年学年末近くの時期(二月頃)に行われることが次第に慣例化された。といっても、大正期からすべての学校で学芸会が開催されたわけではない。本来、学校教育の内容にもっとも密着した行事であるにもかかわらず、その普及と慣例化は祝祭日儀式や、運動会・遠足などに比べて遅れた。石戸・中丸両小学校において、学芸会行事がいつごろから始まったか定かではなく、両校の学校史に収載(しゅうさい)されている回顧談をみてもそれに言及したものは少ない。わずかに昭和五年四月、加納校から石戸校へ赴任(ふにん)した伊藤千代教諭の思い出の記に、「三学期の学芸会も地味で、読書・お話・唱歌・理科実験等であった。」とあるのみである(『石戸小学校六〇年史』P一三二)。他には昭和八年二月発行の石戸村の『郷土読本』(P五八)に、「展覧会、学芸会、父兄参観と、次々に私達の正月の中に行はれる」とあるぐらいである。いずれも昭和初期の思い出や書物にみられる記述であるから、市域の場合、昭和期に入ってから学校行事として定着したものと考えられる。なお、学校によっては学芸会は成績品展覧会とワンセットで開催された。また、その後学芸会の学習発表会的性格は弱められ、歌と演劇を中心とした学芸会となっていった。かくして、一学期の遠足、二学期の運動会、三学期の展覧会・学芸会は、それぞれの学期におけるー大学校行事として慣例化した。

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