北本市史 通史編 近代
第3章 第一次大戦後の新展開
第1節 地方自治制の再編成
2 郡制の廃止と地方選挙
制限選挙制から普通選挙制へ明治二十二年(一八八九)二月、大日本帝国憲法とともに公布された衆議院議員選挙法によれば、その選挙資格は①日本臣民である満二五歳以上の男子、②満一年以上当該府県内に本籍を置いて住居する者、③一年以上当該府県内で直接国税一五円以上納めている者、であった。
このようなきびしい選挙資格は、その後徐々に緩和(かんわ)される方向に向かい、同三十三年の選挙法改正では有権者の納税要件は、直接国税一〇円以上に引き下げられ、被選挙資格からは納税要件が撤廃された(三〇歳以上の男子であることには変化はない)。また、大正八年(一九一九)の改正では、有権者の納税要件は直接国税三円以上となり、住所期間も一か年から六か月へ短縮された。こうした国政選挙資格の変化を背景として、市町村会議員などの地方選挙制度にも若干(じゃっかん)の変化があった(第二章第一節183頁参照)。
このように国政選挙に比べれば有権者は拡大されてはいるが、自らが所属する最小単位の自治体への参政権さえ、制限がなされていた。しかも、市では三級、町村では二級の等級選挙制が施行されていたので、一票の重みは納税額によって大きな差異があった。この選挙制度は、明治四十四年(一九一一)四月の新しい市制・町村制下にも引き継がれ、大きな修正を受けたのは、大正十年の市制・町村制の改正の時であった。
一級・二級の等級選挙制による最後の村会議員選挙が大正十年の春、石戸・中丸両村で実施された。石戸村の議員定数は一級・二級ともに七名の計一四名、中丸村のそれは一級・二級ともに六名の計一二名であった。選挙の詳細を両村についてみたいのであるが、残念ながら中丸村についての資料が乏しいので、ここでは石戸村の状況についてみてみよう。
大正十年の石戸村村会議員選挙は、二級が四月二十九日、一級が翌三十日、村役場を会場に行われた。同年の『村勢要覧』によれば、村会議員の定数は先にも述べたように一四名(一級・二級ともに七名ずつ)で、その選挙有権者は四五七名であった。投票用紙は「西ノ内十二切」のものが用いられた。
用投選議村 紙票挙員会 |
二級
三十七票 大字荒井 新井吉右衛門
三十五票 大字石戸宿 加藤勘右衛門
三十四票 大字高尾 新井啓之助
三十四票 大字新井 新井兵助
二十九票 大字下石戸上 栗原竹松
二十六票 大字石戸宿 小倉浅吉
二十一票 大字高尾 小島政右衛門
一級
九票 大字荒井 矢部喜作
九票 大字下石戸下 中村伊三郎
八票 大字石戸宿 高松信吉
八票 大字下石戸上 石井竹次郎
七票 大字高尾 新井藤助
七票 同 新井竹三郎
三十七票 大字荒井 新井吉右衛門
三十五票 大字石戸宿 加藤勘右衛門
三十四票 大字高尾 新井啓之助
三十四票 大字新井 新井兵助
二十九票 大字下石戸上 栗原竹松
二十六票 大字石戸宿 小倉浅吉
二十一票 大字高尾 小島政右衛門
一級
九票 大字荒井 矢部喜作
九票 大字下石戸下 中村伊三郎
八票 大字石戸宿 高松信吉
八票 大字下石戸上 石井竹次郎
七票 大字高尾 新井藤助
七票 同 新井竹三郎
この等級選挙制は、納税額に応じて選挙権者を二級に分け、それぞれに半数ずつの議員を選挙させることによって、実質的に納税額の多い一級選挙人の「一票の重み」を大きくする制度である。石戸村の場合、一級の有権者が何人存在したのか定かではないが、その有権者が今回の選挙で全員投票したとすれば、五六人ということになる。ということは、石戸村では当時全村税(直接)の半分を五六人で負担していたことになる。得票数の上で一票の重みを計れば、一級者の一票の重みは二級者のおよそ四倍に当たる。
多額納税者を政治的に優遇する等級選挙制度は、大正十年(一九二一)の改正で廃止された。また地租若しくは直接国税二円以上を納める者という資格条件が撤廃(てっぱい)され、直接町村税を納める者とした。こうした改正は、もちろん大正デモクラシー下の選挙権拡張(かくちょう)運動などを背景として実現したのであるが、その結果、村会議員の有権者数は増加し、新制度に基づいて選挙が行われた同十四年には、石戸村のそれは六三三人、同十年に比べて一七六人増、中丸村のそれは四七二人で一七五人増加した。当時の町村税の中心は、府県税戸数割の付加税であったが、府県税戸数割は一戸を構える者、又は構えなくても独立の生計を営む者に課せられることになっていたから、原則的にはすべての戸は、同税及びその付加税を納める義務を負っていた。したがって、各戸のおおかたの戸主には町村会議員の選挙権があったと考えてよいだろう。論より証拠、石戸村の場合、同年の有権率は八三・八パーセント、中丸村の場合は八九・〇パーセントであった。
このような選挙権の拡大は、当然のことながら労働者や小作農の町村会への進出を可能にした。大正十四年に内務省社会局が実施した調査によれば、大正十年(一九二一)一月から六月にかけて行われた全国市町村一万一九六一の市町村会選挙における労働者・小作農の進出状況は、市会で二五人、町村会で二七九四人の当選者を出した。とくに当該(とうがい)議員が定数の三分の一以上を占めた町村は一二七あり、二分の一以上に達した町村は六〇であった。この調査とは別に、埼玉県でも市町村の選挙状況を調べているが、それによると北足立郡では大石(おおいし)村と白子(しらこ)村で小作人の立候補者と当選者(白子村のみ)があった。数の上からもこうしたケースは珍しく、多くの場合、はげしく対立し競争しあうことは排除され、あらかじめ「大字」などを単位とする地域代表が選ばれたうえで投票を行うのが町村の実態であった。こうした議員の地域代表的発想は、普通選挙制の下で実施された昭和期の村会議員選挙にも継続された。
大正十四年四月、第五〇回帝国議会において、いわゆる普通選挙法が成立した。これにより、満二五歳以上の男子の選挙権と、満三〇歳以上の男子の被選挙権が認められた。しかし、婦人の参政権についてはあまり問題にもならず、認められなかった。
昭和三年二月、普通選挙法に基づく第一回目の衆議院議員選挙が施行された。北本市域はこの選挙から始まった中選挙区制のもとで、埼玉一区に属することとなった。この区の立候補者(正規の立候補制もこの選挙から始まった)及び当選者は、表51のとおりである。
表51 第1回普通選挙埼玉第1区候補・当選者(定員4人、川越市・北足立・入間郡)
氏 名 | 年 齢 | 得票数 | 備 考 | 職 業 | |
---|---|---|---|---|---|
当選 | 粕谷義三 | 63 | 25,382 | 政友前 | 元議長 |
当選 | 秦 豊助 | 57 | 23,163 | 政友前 | 幹事長 |
当選 | 田中千代松 | 48 | 22,377 | 民政新 | 弁護士 |
当選 | 定塚門次郎 | 43 | 8,727 | 民政新 | 重役 |
次点 | 松永 東 | 42 | 8,500 | 民政新 | 弁護士 |
次点 | 神谷弥平 | 54 | 1,962 | 中立前 | 農業 |
(『川口市史通史編下巻』P238より引用)
普通選挙法が成立したことにより、大正十五年(一九二六)、地方制度の改正が行われた。その結果、市町村会議員の選挙権は、二年来当該市町村の住民で二五歳以上の男子ということになり、従前の独立の生計を営み、二年来市町村税を納める者という要件は撤廃された(『県史通史編六』P四五二)。
石戸・中丸両村の第一回村会議員の普通選挙は、昭和四年の春に行われた。その年の有権者は石戸村が九三五人、中丸村が六七八人であって、前回の大正十四年に比べると前者が三〇〇人、後者が二〇〇人増加している。
普通選挙制の実施によって、有権者数は最後の等級選挙時(大正十年)の両村とも二倍以上に増加したが、先にも指摘したように、町村会の場合、議員は地域代表という意識が強く、大字ごとの議員配分数に基づいて、その字ごとに有力有権者が談合・協議して推薦(すいせん)者を決めるという方式が広く行われており、町村当局者などもそれを支持していた。その結果、定数どおりの立候補者が出て、選挙は形式的儀式として行われるにすぎない場合が多かった。