北本市史 通史編 近代
第3章 第一次大戦後の新展開
第1節 地方自治制の再編成
2 郡制の廃止と地方選挙
郡制の廃止第一次大戦後の大正十年(一九二一)四月十二日、「郡制廃止ニ関スル法律」が公布された。明治二十三年(一八九〇)五月十七日に府県制とともに公布されてから三一年にして、郡はその姿を消す運命を迎えた。郡制は、町村制及び府県制とともに地方制度の一翼を担(にな)うものであったが、制定当時からその存在意義を疑問視する向きがあった。しかし、地方制度編さん委員長の山縣有朋(やまがたありとも)らは官僚と大地主の支配を保障する機関としてその制度化を強力に進め、府県制と同時に郡制を公布し施行した。したがって、郡長は国の官吏であって町村を監督する立場にあり、郡会は町村会から選出される議員と、地価一万円以上の土地を郡内にもつ大地主の互選議員から構成された。
府県と市町村との中間に位置した郡は、もともと人為的につくられた区域の自治制度であったから、事業の主体とはなりにくく、市町村のもつ附加税や特別税の徴収権もない。したがって、自治組織としてはまことに不十分であって、実体が伴わず、しばしば「無用の長物」として廃止の対象となった。ちなみに郡制廃止案は、明治三十九年、翌四十年、大正三年の三回帝国議会に提出されたが、いずれも貴族院において否決された。しかし、その後も国政委任事務の増大などにより郡制を廃止すべし、との声は依然根強く存在した。
そこで、政府は大正八年九月、「郡制ニ関スル件」についての全国調査を行い、各府県の郡制に関する見解をただした。これに対して堀内知事は、「町村若(もし)クハ町村組合ニ依り地方的事業ノ経営ヲ盛ナラシメ」れば、「郡自ラ之ヲ経営スルノ必要ナシ」と述べ、その理由として「郡内一円ヲ統一シタル特種事業ノ経営」は、「地方ノ事情ニ適合セサルノミナラズ、小郡ニ在リテハ大規模ノ経営ヲ試ムルモ財政ノ宥(ゆる)サヾル所」であって、「郡自ラ経営スルノ困難ヲ来スヲ以テ多クハ事業振ハス中途ニシテ之ヲ廃止スルコトモ稀(まれ)」ではないことを指摘し、「郡制存置ノ必要ナキモノト認ム」(県行政文書 大九七六)と回答した。堀内知事のこの回答は、各郡長の意向を聴取した上でのものであるが、翌九年二月、比企郡会議長中島基治から「郡制廃止ニ関スル建議」が床次(とこなみ)内務大臣宛に提出された。それは「徒(いたずら)ニ莫大ナル費用ヲ要」するのみでなく、「各種事業ノ発達ヲ阻害シ不利不便不尠(すくなからず)」(県行政文書 大一〇六七)というのがその理由であった。
こうして郡制廃止はまさしく時勢のおもむくところとなり、時の原内閣は大正十年(一九二一)三月、第四十四回帝国議会に廃止案を提出し、原案通り可決され、ここにようやく郡制廃止問題は決着をみ、同十二年四月一日をもって郡制は廃止されるに至った。これにより三十三年間つづいた自治体としての郡は消滅し、単なる地方行政区画となったが、郡長及び郡役所はこれまでどおり存続して、郡長は純然たる行政官吏となり、郡役所は県の出先機関となった。それから三年を経た同十五年、政府は郡長及び郡役所の廃止に踏み切り、本県は同年五月二十四日に開会された臨時県会にその善後措置が付議され、異議なく可決されて郡長・郡役所といった機関もついに廃止されることとなった(『県史通史編六』P四三四)。
なお、在郡時における北足立郡会議員の定数は三〇名であって、市域の場合石戸・川田谷両村で一選挙区をなして一名、中丸・馬室・常光の三村で一選挙区を構成して一名であった。