北本市史 通史編 近代
第4章 十五年戦争下の村とくらし
第3節 太平洋戦争と教育
4 戦争の激化と戦時非常措置
相次ぐ戦時非常措置昭和十六年十二月八日に始まった太平洋戦争は、緒戦(しょせん)において華々しい戦果をあげたものの、同十八年以後戦況は悪化の一途をたどり、教育においても戦時非常措置がとられるようになった。すなわち、十八年十月、政府は「教育ニ関スル戦時非常措置方策」(『県史通史編六』P一〇四一)を決定し、学徒動員の強化を含めて、戦力増強の立場から学校教育そのものを再編成する方針を打ち出した。この方針に基づいて、翌十九年二月、「国民学校等戦時特例」及び同施行規則が定められた。これによって昭和十九年度から発足を予定した国民学校の八年制義務教育は実施延期となった。これは国民学校高等科の児童を一人前の生産労働力とみなし、彼らを学徒勤労動員体制に組みこむ必要があったからである。従来の学徒勤労動員は中等学校以上であり、国民勤労報国協力令も十四歳以上の男女を対象としたものであった。
ところが、このたび国民学校高等科児童まで動員対象を拡大し、そしてこの動員期間を六十日とした。中等学校以上については、修業年限の一年短縮に加えて在学生の動員期間を三分の一以上とめた。これでは到底正常授業を維持することはできない。やがて戦局はさらに悪化し、同十九年の後半から米軍の本土空襲が激しくなり、ついに国民学校初等科児童の縁故及び集団疎開が強制的に行われるようになり、初等科の授業もとても満足に行えなかった。
昭和二十年になると、米軍の本土空襲はますます激しさを加え、本土決戦を覚悟しなければならないような事態となった。そこで政府は、同年三月、ついに決戦教育措置要綱を決定し、全学徒を食糧増産・軍需生産・防空強化など直接決戦に必要な仕事に動員し、そのため国民学校初等科を除くすべての学校の授業を、一年間停止することを決めた。その二か月後の五月二十二日には戦時教育令とその施行規則が公布された。しかし、そのころはすでに東京をはじめ大都市は戦火の中にあり、学校教育は事実上全面的に停止の状態におかれた。
当時純農村であった市域は、戦火による大きな被害こそ受けなかったが、本土空襲が激しくなり警戒警報や空襲警報がしきりに発令されるようになると、しばしば授業を中止せざるを得なかった。石戸国民学校『学校日誌』によれば、警戒警報発令・解除に関する記事は、昭和十八年度から登場し、その数は四回であるが、十九年度に入ると一気にその数を増加し延べ一二〇回に及んでいる。とくに十九年十一月以降その頻度(ひんど)を増し、一日に二回警戒警報が発令されたり、空襲警報も発令されるに至った。二十年を迎えると、戦況は一段ときびしさを加え、ほとんど毎日警報が鳴り響き、一日に三回以上警報が発令されることも珍しくなくなった。そして二月には、B29の空爆による空襲警報の頻度がにわかに増加した。
昭和二十年度に入ると、戦況はさらに悪化し、『学校日誌』には連日何回も警報の記事が綴られ、ついに「警戒警報発令のため授業中止」という最悪の事態となった。同年度の中丸国民学校の『学校日誌』をめくると、いきなり警報と疎開による転入学児童の記事が眼に飛びこんでくる。以下、戦場と化した学校の様子を一瞥(いちべつ)してみよう。
四月二日 (月 )晴 警戒警報発令 八時五十分
同 解除 九時十五分
同 発令 十二時十分
同 解除 十二時四十分
転入学児童三名(初六、初四、初一)
四月四日 (水) 雨 警戒警報発令 九時十五分
同 解除 九時五十五分
同 発令 十一時三十五分
同 解除 十二時五分
転入学児童三名(初一、初二、初三)
四月七日 (土) 晴 警戒警報発令の為児童の登校遅れる。
四月十一日(水) 晴 勤労動員 高二忠 運送店へ 麦土入レ、中耕(高一忠孝、高二孝)
警戒警報発令 十一時半
同 解除 十一時五十五分
四月十二日(木) 晴 空襲警報により授業を中止す
四月十七日(火) 晴 警戒警報発令 九時
同 解除 九時三十分
同 発令 十一時二十五分
同 解除 十一時三十五分
同 発令 一時五十分
同 解除 二時十分
四月十九日(木) 晴 警戒警報発令
空襲警報発令
同 解除
警戒警報解除
ノート配給引取リ千三百冊(一冊拾銭)
四月二十四日(火)晴 午前八時より十時迄(まで)警戒簪報発令の為授業中止
四月三十日 (月)晴 警戒警報発令 八時二十分
空襲警報発令 八時三十五分
空襲警報解除 九時五十分
同 発令 十一時二十五分
同 解除 十二時三分
空襲警報により授業を中止す
同 解除 九時十五分
同 発令 十二時十分
同 解除 十二時四十分
転入学児童三名(初六、初四、初一)
四月四日 (水) 雨 警戒警報発令 九時十五分
同 解除 九時五十五分
同 発令 十一時三十五分
同 解除 十二時五分
転入学児童三名(初一、初二、初三)
四月七日 (土) 晴 警戒警報発令の為児童の登校遅れる。
四月十一日(水) 晴 勤労動員 高二忠 運送店へ 麦土入レ、中耕(高一忠孝、高二孝)
警戒警報発令 十一時半
同 解除 十一時五十五分
四月十二日(木) 晴 空襲警報により授業を中止す
四月十七日(火) 晴 警戒警報発令 九時
同 解除 九時三十分
同 発令 十一時二十五分
同 解除 十一時三十五分
同 発令 一時五十分
同 解除 二時十分
四月十九日(木) 晴 警戒警報発令
空襲警報発令
同 解除
警戒警報解除
ノート配給引取リ千三百冊(一冊拾銭)
四月二十四日(火)晴 午前八時より十時迄(まで)警戒簪報発令の為授業中止
四月三十日 (月)晴 警戒警報発令 八時二十分
空襲警報発令 八時三十五分
空襲警報解除 九時五十分
同 発令 十一時二十五分
同 解除 十二時三分
空襲警報により授業を中止す
以上は昭和二十年度が開幕した四月の様子の一部であるが、これによって我々は戦争が教師や子供から教育を奪い取り、授業が中止され、学校機能がマヒしている姿を如実に知ることができる。これはまさしく学校教育の非常事態であり、崩壊していく姿を象徴するものであった。