北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第4節 十五年戦争下の生活と文化

2 衛生対策の進展

明治時代においては衛生対策や衛生思想の遅れもあってしばしば伝染病が大流行した。明治前期に大きな脅威と(きょうい)なったのは疱瘡(ほうそう)とコレラであった。疱瘡については種痘の励行(れいこう)で予防が講じられた。コレラについては、検疫所を置いたり、隔離(かくり)病舎を設置するなどの対策がとられていった。市域でも明治三十六年(一九〇三)に石戸村に隔離病舎が設置され、赤痢やチブス患者の収容にあたった(近代№二九一)。
明治末期から大正にかけては腸チブスや赤痢が流行した。ジフテリアは大正期には減少した。埼玉県全体の法定伝染病患者数及び死亡者の推移をみれば、明治三十年の患者七五二四人、死者二〇七一人を最多とし、四十三年に二二九〇人と六六三人、大正九年(一九二〇)には三〇五一人で死亡六六九人となっている。
昭和に入ると、三年ごろまではしばしば市域においても伝染病患者が発生していたが、各村当局において村医・校医の設置、種痘の励行、井戸厠(かわや)改良組合の奨励、衛生講話会・衛生幻灯会の開催などが行われ、次第に患者も減少した。
同九年には、石戸村の隔離病舎も伝染病患者の減少、舎屋の老朽(ろうきゅう)化、また市域や近隣に普通病院が開業されていることなどを理由に廃止された(近代№二九一)。この時の建物は、表72のとおりで、これに小使室七・五坪が付置されていた。これらの建物は取壊(とりこわ)されて役場付属建物として再建され、事務室のみは残され、暖友会の事務室用に無價讓与された。
表72 隔離病舎所在地等
所在地建 坪摘 要
町村大 字地 番
石戸村下石戸上中町1289番ノ3
1290番ノ1
1290番ノ2

54.22
隔離病舎
1287番ノ2
1289番ノ3
15.00事務室
129〇番 ノ 13.00屍室

(『市史近代』№291より引用)

同十二年には、石戸村結核予防委員会がつくられた。結核は、結核菌の感染によって起こる伝染病で、産業革命を起こしたイギリスから始まり、先進工業国に広がった。日本では、明治に入って社会が近代化を始めて以来増加し、第二次大戦中は大変な蔓延(まんえん)状態であった。この委員会でも特に虚弱児童に対して結核患者の発見・予防に力を入れ、活動写真の開催、講演・講話会の開催、パンフレット・ポスターの配布、学校栄養食の配給などの事業が計画された(近代№二九二)。
昭和十三年二月には、恩賜財団済生会(おんしざいだんさいせいかい)診療所設置計画が石戸村から出された(近代№二九三)。市域においては大地主も多いが小作人も多く貧富の差が激しく、無医村なので診療のためには鴻巣や桶川に出向かなければならず、きわめて不便であった。時局下、軍事や生産のためにもまた、診療所の開設が求められた。

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