北本市史 通史編 近代

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第4章 十五年戦争下の村とくらし

第4節 十五年戦争下の生活と文化

3 くらしの近代化

郵便
明治新政府は版籍奉還・廃藩置県後、中央集権体制の下で近代欧米文化の導入に着手した。そのため多数の外国人を各分野の指導者として雇(やと)い入れる一方、電信・鉄道・郵便などの近代的交通機関の採用や、近代工場の経営・学制頒布・太陽暦の採用、軍人・官吏などの洋服の着用、洋風の食事の奨励、また洋風建築なども取り入れるようになっていった。このような明治初年の西洋化を総称して「文明開化」という。それは殖産興業(しょくさんこうぎょう)、政治・制度、思想、生活様式・風俗などの各方面にわたっている。これら新政府によって導入された「文明開化」は一様に日本全体に広まったのではなく、それぞれの地方の地理的・経済的特性のちがいによって様々な位相で拡大していった。市域においては明治末から昭和初期にかけて導入整備されていった。まず郵便について見てみよう。
明治四年(一八七一)一月太政官から「郵便創業の布告」が発せられ、同年三月、江戸時代の飛脚に代わる近代的郵便制度に基づく郵便取扱いが、東京、京都、大阪間で開始された。翌五年二月に改正増補郵便規則が定められ、七月には北海道の一部を除いて国内全般に郵便法を施行した。埼玉県でも、この時県内の旧宿駅に初めて郵便取扱所が設置され、郵便扱人がおかれた。この郵便取扱所の多くは、旧伝馬問屋が当てられた。同時に、明治五年五月に中仙道郵便馬車会社が設立され、東京・高崎間に郵便馬車の定期運行が開始された。これは東京が本社、熊谷・高崎が支社であり、蕨・桶川・本庄に出張所が設けられた。馬車は二頭立て、一頭立て各二輛で五〇頭の馬で運行され、開業当時は東京、高崎をそれぞれ午前六時に出発、それぞれ午後六時に到着、東京・高崎間一往復、東京・熊谷間一往復であった。しかし、明治十六年六月に上野・熊谷間に鉄道が開通し、郵便物は鉄道輸送に代わり、馬車会社は衰滅の運命をたどった。同十六年一月、桶川郵便局の管整下にあった石戸村では、下石戸・高尾・石戸宿・荒井に表73のように四か所の郵便差出所が設置された。その後、昭和九年になって中丸郵便取扱所が開設され、楠松保太郎が所長に任命され、郵便・内国為替(かわせ)・貯金の業務が開始された(近代№二五二)。次いで同十三年三月十六日、同取扱所は昇格して三等郵便局となり、一般郵便事務をはじめ電報も取扱い、石戸・中丸・常光三村に配達されることとなった(近代№二五三)。
表73 石戸村郵便差出所
所 在 地氏  名個数設 置 年 月 日
大字下石戸下吉田時三郎1明治16年1月2日
大字高尾田島幸之助1同 設置当時ハ岡田政吉ナリシニ中途ニシテ40牟ニ田島ニ移ル
大字石戸宿鈴木 嘉助1同 設置当時ハ鈴木善右衛門名儀ナリキ
大字荒井福島丈太郎1明治45年4月ヨリ設置ス

(『市史近代』№250より引用)


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