北本市史 通史編 近代
第4章 十五年戦争下の村とくらし
第4節 十五年戦争下の生活と文化
3 くらしの近代化
電灯明治以前の長い間、我が国では室内の照明として行灯(あんどん)のように、油皿に植物油を入れ灯心に火をともしたものや、ろうそくを用いたりしていた。戸外では提灯(ちょうちん)やかがり火、たいまつ等が使われていたが光は弱く、それによって細かい仕事ができるものではなかった。明治期に入ると、文明開化を象徴するように石油ランプが普及し、都市ではガス灯が街を明るく照らすようになった。東京銀座の街路にガス灯が点火されたのは明治七年(一八七四)のことであった。
埼玉県下で一番早く電灯がついたのは、川口町であった。永瀬鉄工所が自家発電を行い、自社の工場と近隣に送電した。県内での営業送電の始まりは、明治三十七年(一九〇四)七月一日、浦和町の埼玉電灯が浦和町や蕨町などに送電したのが最初であった。当時の電灯は、午後六時頃から午前零時ごろまでの送電時間であり、しばしば電圧が低下して暗くなるという不安定なものであったという。
これより先、明治三十六年に川越電灯が事業許可を得て、同三十八年から送電営業を開始した。四十年代に入って、同四十三年二月に西武電力、七月に加須(かぞ)電気、十月に越ケ谷電灯の三社、翌四十四年十月に幸手(さって)電灯と行田電灯、十一月に王子電気鉄道の三社がそれぞれ設立され事業許可を得ている。行田電灯会社は、出資金二〇万円で明治四十二年に創設され、東京電灯会社から買電して忍(おし)町・鴻巣町他一二か村に配給していた。中丸村はこの中に入っていた(近代№二五六)。
大正十四年(一九二五)五月には、石戸村第一電灯組合が設立され、その組合規約が決められた(近代№二五五)。それによれば、石戸村第一電灯組合は、東京電燈株式会社から電灯供給を受けるものであり、組合が受ける責任電灯需要数は七〇〇灯であった。この時の区の責任電灯数届によれば、一二の常時灯で五燭(しょく)が六、十燭が六、一六燭が二〇、二四燭が一、三二燭が二で合計三五となっている。ただし、臨時灯はなかった(近代№二五五)。
表74 電灯組合灯数届
石戸村第一電灯組合第 区責任灯数届 | ||||||
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常 時 灯 | 合 計 | 需 用 者 氏 名 | ||||
五 燭 | 十 燭 | 十六燭 | 二十四燭 | 三十二燭 | ||
一 1 | 二 1 | 一 0 | 2 | 四 | 岡村 新平㊞ | |
一 1 | 二 2 | 三 | 同 喜太郎㊞ | |||
一 1 | 一 | 中島 徳十郎 | ||||
一 1 | 三 3 | 四 | 同 金次郎 | |||
二 2 | 二 | 長島 久五郎㊞ | ||||
一 1 | 1 | 三 2 | 四 | 新井 角三郎㊞ | ||
1 | 四 3 | 四 | 石井 幸五郎㊞ | |||
1 | 三 2 | 三 | 同 てふ㊞ | |||
1 | 一 1 | 二 1 | 三 | 福田 時蔵㊞ | ||
1 | 三 2 | 三 | 同 辰五郎㊞ | |||
一 0 | 一 1 | 1 | 二 | 六本木喜平㊞ | ||
1 | 一 0 | 一 1 | 二 | 山崎浅右衛門㊞ | ||
合 計 一 | 七 | 二六 | 一 | 三五 | ||
届済灯数 6 | 6 | 20 | 1 | 2 | 35 | 一二名 |
(『市史近代』№255より作成)
昭和八年になると、中丸村でも東京電燈との契約が満期になるのを機に会社から事業を譲りうけ、町村組合立経営をしようということになり、十月に協議が開始された(近代№二五六)。