北本市史 通史編 近代
第4章 十五年戦争下の村とくらし
第4節 十五年戦争下の生活と文化
3 くらしの近代化
電信・電話我が国における電信業務の開始は明治二年(一八六九)で、横浜弁天台役所・神奈川県裁判所間に開通したのが最初であった。この年の二月に東京・横浜間が開設され、公衆電報も取り扱われることになった。その後同六年には東京・長崎間が、翌七年には東京・青森間が開通し、東京・青森線は県内では草加ー越ヶ谷粕壁(かすかべ)ー杉戸ー幸手(さって)を通って栗橋に抜ける電信線が走っていた。さらに同十年に東京・新潟間が架設され、浦和・熊谷に電信取扱所が設置された。政府がこのように急速に電信網を開設させたのは、明治七年以降のいわゆる「士族の反乱」などの治安対策上と、中央集権化の確立のためであった。県令白根多助は、工部卿伊藤博文に対する電信取扱所開設の請願で治安上の必要を強調している。この東京・新潟間の架設事業に伴い、明治十年市域の本宿村の官有地に本柱一六本と控柱五本の建設がなされた(近代№二四九)。
一方電話は、明治十年、グラハム・ベルが電話を発明した翌年輸入され、工部省で模造に着手し諸官庁間の連絡のため試用が開始された。その後内務省・警察本署間に架設されたのをはじめとして、まず警察用電話網が形成されていった。一般の人々が利用できる公衆電話はかなり遅れ、明治二十三年の東京~横浜間が最初であった。埼玉県で一番早く電話が開通したのは、杉戸町と北葛飾郡役所を結ぶ私設電話であり、明治三十一年に許可され開通した。公域の電話はこれより早く、明治三十三年度に県庁内の警察部と浦和簪察署ー浦和裁判所、浦和監獄(かんごく)、北足立郡役所間と、岩槻・杉戸・幸手等、各警察署を結ぶ第一回線から第八回線が開設され、警察部と各警察署間の電話を中心に開所が設置されてからであった。市域では昭和十二年に中丸郵便取扱所で電報(和文)電話の取扱が開始され(近代№二五三)、翌十三年十一月に石戸村から役場の事務が繁劇(はんげき)化し、日中戦争下の国防上の見地からも是非必要であり、従前から設置を計画していたが、鴻巣又は桶川局からは遠いので設置費がかかり遅れてしまった。このたびの中丸村郵便局設置を好機として申請がなされ、一日の平均通話見込は、発信二〇通、着信二五通とされた(近代№二五四)。