北本市史 通史編 近代
第4章 十五年戦争下の村とくらし
第1節 十五年戦争下の村政
3 大政翼賛運動と村政
戦争協力体制の確立写真140 年間主要行事予定表
昭和14年度(加藤一男家 44-1)
石戸村では、同年十一月石戸村常会規約、石戸村部落会規約が決められた。常会規約では、目的として「隣保団結ノ精神二基キ区域内ノ住民ヲ組織結合シ万民翼賛ノ本旨(ほんし)ニ則(のっと)リ地方共同ノ任務ヲ遂行(すいこう)スルコト」、「区域住民ノ道徳的錬成卜精神的団結ヲ図ルノ基礎組織トスルコト」、「国策ヲ汎(あまね)ク区域内住民二透徹(とうてつ)セシメ国政万般円滑ナル運用ニ資スルコト」、「国民経済生活ノ地域的統制単位トシテ統制経済ノ運用卜国民生活ノ安定上必要ナル機能を発揮スルコト」が挙げられた。
写真141 麦刈り共同作業
昭和15年ころ 中丸(新島清作家提供)
明治二十一年(一八八八)の市制・町村制公布以来、行政の末端単位である市町村の下には、法制的組織を認めなかった政府ではあるが、満州事変以後の町村の事務の増加から、町内会や部落会はその役割を分担する行政補助組織として、新しい意味を持つようになってきていた。国家総力戦を遂行するためには、直接国民個々人に達するルートとして隣保(りんぽ)組織が大きな力となった。「上意下達(じょういかたつ)、下情上通(かじょうじょうつう)」のスローガンは、この組織がまさに下の意見を聴くためではなく、上の意見(統制)が下に達するための機構であったことを物語っている。
部落会規約では、任務として、「一、経済・産業・教化ニ関スル事項、二、警防・保健・衛生ニ関スル事項、三、社会施設ニ関スル事項、四、時局下ニオケル必要物資ノ増産供出配給及消費規正ニ関スル事項、五、其ノ他共同生活ニ関連(かんれん)スル各般ノ事項」があげられ、近代的な意味における「個人」が尊重される場面は全く排除(はいじょ)された。
満州事変以後、精動(せいどう)・翼賛(よくさん)の両運動の中で、大きな役割を果たしてきた組織の一つに在郷軍人会がある。同会は出征将兵の慰問や家族の慰問、戦病死軍人の弔祭や傷病将兵の慰藉(いしゃ)のみでなく、時局講演会や教化活動にも積極的役割を果たした。
昭和十六年十二月八日、東条英機(とうじょうひでき)内閣によって太平洋戦争に突入すると、挙国軍事体制はいよいよ強化され、町内会・部落会や隣組の組織は完全に戦時行政の下部組織に組み込まれた。町内会・部落会の任務は隣組を統轄(とうかつ)し、供出や配給をはじめ警防等について上部機関からの通達を伝達し、隣組はこれを受けて供出・配給・公債の割当・国防献金・出征兵士の送迎・防空演習・金属や廃品の回収(十六年八月政府は金属特別回収をはじめる)・回覧板の伝達などにあたった。
写真142 畑仕事の勤労奉仕
昭和17年 荒井(岡野武弘家提供)
一方、昭和十六年二月には「北足立郡石戸村生活改善申合規約」が決められた(近代No.二九六)。これは日常の冠婚葬祭(かんこうそうさい)などについて「滅私奉公(めっしほうこう)」という立場に立って厳しく規制したものであり、国民生活の統制も一つの頂点に達した。
写真143 警防団
(小林恒一家提供)
昭和十六年七月、日本軍は中国戦線の膠着(こうちゃく)化を脱するため南北併進の方針を決定し、南部フランス領インドシナ進駐を行った。これに対しアメリカはイギリス・オランダとともに日本資産を凍結し、八月には日本への石油輸出を禁止した。民需用品は日を追って品不足が目立ち「ガソリン一滴(いってき)血の一滴」といわれるようになった。主食の本格的配給は同十六年四月から行われ、一般の大人は二合三勺(しゃく)(三三〇グラム)を米穀通帳により指定された米穀店から配給された。翌十七年から戦局が不利になるにしたがって、外米の他に麦・甘藷(かんしょ)・馬鈴薯(ばれいしょ)・とうもろこし・うりゃん等が代替配給されるようになった。同十九年には飼料用の大豆粕・どんぐり粉までが代用品として配給されたが、同二十年になると一日二合三勺の基準さえ削減されるようになつた。