北本市史 通史編 近代
第4章 十五年戦争下の村とくらし
第1節 十五年戦争下の村政
2 国民精神総動員運動と村政
戦争による市民生活の統制しかし、この運動は従来の国策運動と同様、相対的にはなかなか実行が伴わず、効果については今一つの声があり、運動の進め方についても各方面から批判の声が出た。そこで昭和十四年三月、平沼内閣はこの運動の立て直しを企図し、主管省を内閣情報部に移し、内閣直轄の国民精神総動員委員会を設置して連動の強化を図った。
市域で行われた運動の一端を挙げると、まず同十二年には石戸村軍人後援会が結成され(近代No.二四三)、その目的として、「本会は村民一致協力出征将兵並びに在営将兵をして、後顧(こうこ)の憂(うれい)なからしむる」ことが唱(うた)われた。事業としては出征並びに在営将兵の慰問、戦病死軍人弔祭(ちょうさい)、戦病死軍人遺族慰藉(いしゃ)、傷病将兵慰藉、将兵歓送迎などがあげられた。また同年十一月には、中丸・石戸青年学校で青年学校教練受閲(じゅえつ)計画立てられた(近代No.二二二)。その内容を見ると、まず礼節・団結を尚(たっと)ぶの念を養うため全員による閲兵(えっぺい)が行われる。次いで各個の教練が、行進・立射(りっしゃ)・膝射(しっしゃ)・伏射(ふくしゃ)・伏せ発進停止・射撃・突撃の順で行われる。各個教練のあと部隊教練が行われ、さらに軍事講話(日中戦争の原因及び現時青年の覚悟)のあと査閲官の講評・訓示で終了するものであった。
写真136 戦没者の公葬
(石戸小学校提供)
写真137 出征兵士と家族の記念写真
昭和19年(金子敏郎家提供)
これらのうち、大日本国防婦人会や愛国婦人会は、銃後を守る婦人の立場から、英霊拝迎(えいれいはいげい)式・反毛(はんもう)材料蒐集(しゅうしゅう)、梅干献納・出征兵士に対する通信奨励などに活発な運動を展開した。
戦争が長期化持久戦化し、総動員体制が進むなかで、精動運動もその重点を精神教化から「非常時経済政策」への協力や「資源の愛護」==物的資源の確保へと移していった。そのため精動産業週間(昭和十二年十二月)、精動農業生産増強週間(十三年一月)、愛国公債(あいこくこうさい)購入運動(同二月)、愛国貯蓄運動(同六月)、金集中運動(十四年四月)等が展開された。埼玉県においても、昭和十三年四月新しく就任した土岐銀次郎知事は、七月七日の蘆溝橋(ろこうきょう)事件一周年に際して、「銃後における国民の任務は国民精神総動員の趣旨に則り、政府の財政経済政策に協力して生産力の拡充・消費の節約・勤険貯蓄を励行して戦時資材の充足と戦費の調達とに万遺憾(ばんいかん)なきを期すべきであります」(『東京日日新聞』埼玉版昭和十三年七月七日)と語った。また県では同十三年には貯蓄奨励に力を入れ、六月には貯蓄強調週間を実施した。昭和十四年に入ると貯蓄奨励はなかば強制化し、県の貯蓄増加目標額が設定され、その目標額を逹成するために町内会・部落会等の組織が整備強化され、各家庭の個人にまで趣旨の普及徹底がはかられた。
写真138 資源愛護のビラ
(石戸村 38)
写真139 大日本国防婦人会
昭和16年ころか(石戸小学校提供)
これに基づき市域でも、八月一日~二十日に「国民心身鍛練運動」が実施され、体操・徒歩・武道、乗馬・集団的勤労奉仕作業・相撲・水泳が奨励された。十二月には、紀元二千六百年新年奉祝実施要綱並びに紀元二千六百年元旦の興亜(こうあ)奉公日に関する件が通達され、「草の根」からのファシズム体制が編成されていった(近代No.七十六)。
先に石戸村は、昭和七年に「埼玉県農山村経済更生計画」を樹立してその指定を受けて、種々の改善を行なった。昭和十二年、日中戦争が勃発(ぼっぱつ)すると総力戦体制がとられ、戦時下に対応した計画経済の実行をはかる第二次更生運動に取り組んでいった(近代No.七十三)。まず、同十四年三月二十日、石戸村経済更生委員会規程が決定され、次の事項について調査審議を行うとした。一、重要農林産物の生産維持増進に関する総合計画、二、農林業の経営に必要な資材の配給に関して、三、農業労力の需給調整に関して、四、経済更生に関する事項。以上をみてもわかるように、国家総動員法の施行によって「人的物的資源」が軍需中心に展開され、さらに戦争の長期化によって兵士の動員により、農家経営にも支障が及んで来たにも拘らず、軍需を中心とする生産増大の課題にどのように対応していったらいいか、というのがこの時期の課題であった。
これを受け同年五月には「第二次更生計画」についての方法がまとめられた。それによれば、第一次では村全体の努力目標がそれぞれ決定されたが、第二次では五人組長また班長を中心に個人計画を立てることになった。その際には部落常会の理解を得て説明を受けること。各個の計画立案にあたっては家族会議を開いて目標達成について充分協議をすること。さらに個人計画を各組合で内容を集計し、充分批判検討し、部落更生計画の原案を作製することとされた。これは第一次更生計画のある意味では粗略(そりゃく)な計画を反省し、各個の計画を家族内部で検討し、さらに各組合ごとにそれを見直させるという緻密(ちみつ)なものとなっている。また、実行組合を単位として進度成績について競進会を開くという競争原理や、経済更生記念日を設定して毎年全村民の総集会を開いて進度を報告することも取りあげている。国民精神総動員運動の農村への浸透であった。