北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第2節 町村合併と三十年代の村政

1 町村合併をめぐる動き

幻の常光村合併
常光村合併は、昭和二十九年五月十九日の両村の協議会(両村の村長、助役、正副議長が出席)で意見の一致をみた。しかしその際、常光村長は「合併には村民の意向を聞き、(中略)合併について啓蒙(けいもう)し、両村合併を促進」するとしており、相手側村民の間には、なお意見の相違のあったことを暗示している(現代No.十六)。
常光村の村民世論の不確実さを問題にはらみながら、しかし両村の協議はすすみ、両村合併促進協議会規約や委員選定をはじめ、新町建設計画をふくむ関係書類さえ準備されつつあった。ところが事が進むとともに、常光村で鴻巣合併要求が表面化した。その根拠として、高校などの教育施設がすぐれていること、用水利用が円滑になることをあげている(現代No.十七)が、これら通学圏や用水利用圏は地域結合のうえで強い機能をもつものであり、これら諸機能によって鴻巣を中心にした結節地域が形成され、おそらく常光村民の日常生活は、万般にわたって鴻巣の影響をより強く受けていたのであろう。常光村はまさに「交通、経済、文化を考慮」すれば鴻巣圏にあったのであり、こうした日常経験に根ざした反対意見の説得には、資料によって北本宿村との合併の有利さを証明しないかぎり不可能であった。「今此処で両村の合併問題を進行させることは、一層村民の感情を悪くするので、暫(しばら)くの間両村の合同会議を避け、(中略)暫く猶予(ゆうよ)期間を置きたい」(現代No.十七)という常光村の申出によって事実上打切りとなった。
ここに至って七月十九日、議会に全く新しい桶川・川田谷・加納・常光・北本宿五か町村合併案が提案され、議会は同案の実現を前提に、村民啓発(けいはつ)の資料作成と五か町村合併についての調査・研究を決定した。続いて八月六日、常光村より鴻巣町との合併決定の通告があり、当初の「北本宿村を中心に常光村合併案」が解消すると、議会はもう一度桶川町・川田谷村・加納村の状況を視察・調査することとした。しかしその結果は次のようであり、相手町村のいずれもが五か町村合併には消極的なことが判明した。
○ 川田谷村 委員会は上尾との合併の方向であったが、現在は桶川からの呼びかけもあって五分五分となっている。しかし村長。助役は当初から、上尾との接触が多く、桶川との合併の可能性は小さい。
○ 桶川町 町長の考えは、北本宿村は合併の先進村で、人口・面積からみて現状で差支えないだろう。機会があれば考慮するという程度で、積極性は認められない。
○ 加納村 大勢は桶川町との合併には消極的である。
相手町村の状況が以上のようなものだったとすれば、提案そのものが無意味なものとなる。五か町村合併案は、北本宿村から発議した提案だったのか、他町村からの呼びかけに応じたものだったのか、はっきりしない不思議な案で、思いつきのように突如現れたが、同案もまた幻のように消えていった。

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