北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第2節 町村合併と三十年代の村政

2 町政移行期の村政

すすむ同和行政
戦後の解放運動は、部落解放全国委員会の結成に始まる。これは昭和二十一年二月二十九日、戦前の水平社運動を継承して京都で結成され、部落産業の全面的振興、身分差別撤廃、民主主義日本の建設をめざしていた。その後、京都市職員による差別事件のオールロマンス事件(同二十六年)を経て、昭和三十年八月、同委員会は部落解放同盟と改称し、同三十二年には部落解放国策樹立要請国民会議を結成、国の行政的取組みを要請する運動を強力に展開していった。これに対して政府は、同和事業十か年計画を発表し、同三十四年、同和対策審議会設置法を可決、やがて設置された同和対策審議会は、昭和四十年八月十一日、「同和問題の早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である」とする答申を発表、同四十四年六月には十年の時限立法である同和対策事業特別措置法を制定して、解放令以来、九十八年を経て、本格的に国をあげて同和対策事業に取り組むことになった。埼玉県でも、昭和四十八年に同和対策総合計画を策定し、行政的取組みが始まった。同法は昭和五十三年に三か年延長された後、同五十七年四月一日、五年時限法の地域改善対策特別措置法、同じく同六十二年には地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律を制定し、さらに平成四年四月一日、同法は五年間延長されることになり、差別の一層の解消を期して今日に至っているのである。
北本市では昭和四十七年二月に「北本市同和対策審議会」を設置し、同和問題解決のため必要な総合的施策の樹立のほかその対策等を審議することにした。委員は十一人で、市議会議員二人、民生委員一人、市教育委員会委員一人、人権擁護(ようご)委員一人、市農業委員会委員一人、同和問題に関し識見を有する者四人、市社会教育委員一人であった。そこでは、同和対策事業の重要性について認識を広めるための講演会・映画会の開催、地区道路や下水・排水路等の環境改善事業をはじめとする同和対策事業の推進を要請していった。その後、同五十七年七月、名称を北本市地域改善対策審議会と改め今日に至っている。
昭和四十七年四月には、同和教育の振興を図るため北本市同和教育推進委員会を発足させた。ここでは、「人権を守る市民の集い」の共催や市民啓発誌「けやき」の発行などの取組みを行っている。
昭和四十八年四月、同和対策を総合的に推進するため市では新たに同和対策室を設置したが、その後秘書人事課の地域改善対策担当に組織変えされ今日に至っている。また同年、同和対策集会所として堀の内集会所が建設された。この集会所は、その後周辺地域の人々との交流の場、社会教育の場として活発な活動を展開している。
このようななか、昭和四十九年三月、南小学校を会場に「同対法促進部落差別解消市民大会」が市民多数の参加を得て開催された。その後、毎年”差別をなくし明るいまちづくり”をめざして「人権を守る市民の集い」が開催されている。
昭和四十七年に始まった石戸小学校、北本中学校の同和教育の埼玉県教育委員会研究委嘱(いしょく)は、その後市内全小中学校の研究委嘱と広がり、「差別の解消・人権の確立・連帯感の育成・学力の向上・正しい労働観の育成」を基本目標として、同五十一年十一月に学校同和教育の研究成果の合同発表が行われた。その年、石戸小学校には同和教育推進教員が置かれた。市内小中学校ではその後も研究を続け、北本中学校では、昭和六十二年から六十三年にかけて、再び埼玉県教育委員会の研究指定をうけ発表会を開催している。なお、市では昭和五十年度に「同和対策総合計画」を、昭和五十五年度に「同和対策総合実施計画」を策定し、対象地域の生活環境の改善、社会福祉の充実、産業・職業の安定、教育・文化の向上、基本的人権の擁護(ようご)を推進してきた。このほか、学校教育・社会教育を通じて、学社連携(れんけい)のもとに同和教育の徹底を図るとともに人権擁護活動を活発に展開し、同和問題を市民一人ひとりの問題としてとらえ、正しい理解や根強い心理的差別と偏見の払拭(ふっしょく)、基本的人権の普及高揚に努め差別のない明るいまちづくりに取り組んでいる。


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