北本市史 通史編 現代
第1章 戦後復興期の北本
第3節 食糧増産時代の北本
1 農地改革の推進と農村民主化
在村地主と不在地主農地解放の執行に先立って行われた在村地主調査(北本宿 七十六)によると、石戸地区にはおよそ五二三人(法人も含む)の地主が四〇三.二町歩の貸付地を有していた。これら在村地主の貸付地のすべてが解放されたわけではなく、解放対象となったのは保有上限三町歩を超える分の貸付地に限られ、保有限度内の貸付地はそのまま小作地として残された。
中丸地区に関する資料がないので全体的なことは言及できないが、石戸地区の状況から推論すると、昭和四十年六月の地主補償金五十万円以上の農家六戸中五戸が石戸地区に所属していたことから、すくなくとも石戸地区の方が中丸地区よりも農民の階層分化は進んでいたことが考えられる。
一方、不在地主は、石戸地区では川田谷、馬室(まむろ)、桶川などの近隣町村居住者が七十パーセントを超え、中丸地区では鴻巣、常光(じょうこう)、加納などの近隣町村が同じく七十五パーセントを占めていた。これに対して、両地区とも東京を中心とする遠隔(えんかく)都市に十~二十パーセントの不在地主を抱えていた。前者の近隣町村の不在地主の多くは、小作収入を予定して土地を取得し、これを小作地化していたが、後者の遠隔都市居住の不在地主には、都市的な仕事で成功した結果、村を離れ、所有地を小作地化したものや、結婚・就職などで村を出た後で耕地を小作地化したものが多い。
ちなみに石戸地区の不在地主の所有地を地目別に分類すると、水田六.八町歩、畑五十二.五町歩、山林十四.九町歩、宅地二.一町歩となっている。このうち宅地を所有する不在地主の存在が、北本を離れて都会に安定就職した人たちであることをうかがわせる。
表8 北本宿村の不在地主分布表 昭和22年
(西)石戸地区 | (柬)中丸地区 | ||
---|---|---|---|
川田谷 | 42 | 鴻 巣 | 73 |
馬 室(まむろ) | 63 | 常 光(じょうこう) | 55 |
田間宮(たまみや) | 3 | 加 納 | 36 |
桶 川 | 9 | 栢 間(かやま) | 7 |
東吉見 | 5 | 山中本村 | 2 |
小見野(おみの) | 3 | 小 林 | 1 |
唐 子(からこ) | 1 | 笠 原 | 3 |
八ッ保(やつほ) | 1 | 平 方(ひらかた) | 1 |
三保ノ谷 | 1 | 大 石 | 2 |
熊 谷 | 2 | 原 市(はらいち) | 2 |
川 越 | 1 | 上 尾 | 1 |
浦 和 | 1 | 加 須(かぞ) | 1 |
川 口 | 1 | 忍(おし) | 1 |
東 京 | 20 | 大 宮 | 1 |
八王子 | 1 | 東 京 | 20 |
その他 | 2 | 横 浜 | 6 |
その他 | 8 | ||
計 | 156 | 計 | 220 |
(北本宿№359より作成)
なお、昭和四十一年の地主補償の際の補償金額(五十万円以上)から当時の比較的大きな在村地主を挙げると、被買収面積三十二町歩のA (高尾)、同じく二十六町歩のB(高尾)をはじめ、C(下石戸上)、D(北中丸)、E(下石戸上)、F(下石戸下)の諸氏を列挙することができる。いずれにしても、彼らは、水田単作地帯にみられたような金融業や肥料商を兼営しながら広大な土地を集積していった寄生地主と異なり、どちらかといえば手作り大農に近い中小地主層であり、村人の怨嗟(えんさ)・羡望(せんぼう)の的となる存在ではなかった。