北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

1 農地改革の推進と農村民主化

農地改革をめぐるトラブル
農地改革の推進は地主・小作両農家層にとって社会的にも経済的にもきわめて重要な問題であった。それだけに当局も十分法体系を整備して取り組んだはずであるが、地主たちの生き残りをかけた反撃は激しく、各地でさまざまなトラブルが生じた。
北本宿村の場合でみると、まず眼についた点は上限枠三町歩対策としての耕地の分割相続であろう。これは第二次農地改革の寸前に、駆け込み申請のようにして多くの地主たちによって試みられた。北本宿村(石戸分)在村地主名簿によると、分割相続を試みたとみられる地主数はおよそ二五〇人前後にのぼった(北本宿 七十六)。
地主交代の動きもみられた。たとえば、東京都練馬(ねりま)区在住の不在地主Sの土地(畑五反一畝(せ))を、在村農民Kが所有権移転によって入手し、これを従来からの借り主である農民Mに改めて小作地として貸し付けるというものであった。いわゆる買収計画書の修正に関する訴願(そがん)である。本来ならば、当然、Mは不在地主Sからこの土地を解放され、自作地化できるはずであったが、所有権の移転により三町歩枠内の地主Kから小作地として借りる破目(はめ)に立たされたわけである。もちろん、この問題は埼玉県農地委員会の裁定(さいてい)で却下(きゃっか)され、当初の予定通りMはSから畑五反余を入手して創設自作農になった。
農地改革の直前に小作契約の解消を求める動きも少なくなかった。ただし、一部には同情すべき事情を抱えた地主もいた。昭和二十一年十一月に解約申請書を村農地委員会に提出したRの場合、世帯主(五十七)夫妻、長男(二十八)夫妻、次男(十八)の働き盛り五人の家族構成に対して、経営耕地は畑六反五畝にすぎなかった。そこで長男の復員、次男の中等学校卒業を機会に、四人の小作人から田畑合計六反歩の貸し付け地を返してもらい、家族労働力に見合う規模を回復しようとして訴え出たものである。
同じ日に解約申請を出したOの場合は、体が丈夫でなかったことから農業を捨て、耕地一町五反五畝を村内の小作人四氏に貸し付け、俸給(ほうきゅう)生活者になっていた。農業恐慌(きょうこう)期の農産物価格の低さに見切りをつけて転職(戦時中農業要員として復業)し、戦後の農地改革に直面して急遽(きゅうきょ)、農家経済上あるいは農業経営上必要になったから農地を戻されたい、というのは少々甘い主張である。しかし、四氏への貸し付け地一町五反五畝のうち、わずかに三反三畝だけを解約したいというのもまた控え目すぎる要求であった。おそらく、真意は解放を懸念(けねん)しての解約要求ではなく、三町歩の枠内で認められる小作地のうち、一部でもいいから自作地として取り返したかったものであろう。
農地改革をめぐるトラブルは解放後も尾をひいた。たとえばKの場合、昭和二十六年に貸付地二反二畝のうちの半分が、小作人によって無断で他人に転貸(てんたい)(またがし)されたため、信義達反だとして解約を訴えでている。
また、Tの場合は家族四人で一町一反を耕作していたが、昭和三十一年、長男(二十三)が嫁をとり、弟たちも大きくなったうえに契約期限も切れたことだから、この際、小作料も払ってくれないような相手とは解約したい、として申請した。ところが、相手は代理人を立て対抗したため、県農地課から係官が出張してきて「法廷外調定(ちょうてい)」を行ったが、結論は持ち越されてしまった。
同じく三十一年、Hは自宅の敷地が狭く農作業に支障をきたすとの理由から、地主に無断で借地八畝(せ)のうち六十坪を自宅隣接耕地を所有する知人と交換分合を行った。結果的に転貸をしたことになり、これを理由に地主から解約もしくは買い取りを強く迫られる破目になった。そうこうするうちに折り合いのつかないことに業(ごう)を煮(に)やした地主が、桑苗や芋苗を小作地の一角に植え付け耕作妨害をはじめたので、これも調停に持ち込まれ、ひとまずの決着をみることになった。

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