北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第3節 食糧増産時代の北本

2 戦後の食管制度と北本の農業

終戦直後の北本の農業
農地改革があらかた終了した昭和二十五年当時の北本の農家は、一二一五戸中〇.五ヘクタール未満層が二十六パ—セント、一.五ヘクタール以上層が十四パーセント、残り六十パーセントは〇.五~一.五ヘクタール未満層であった。このうち専業農家は七二八戸(六十パーセント)で、経営規模〇.八ヘクタール当たりを境に、専・兼業農家が分かれていたようである。また、専業農家と自作農家(六九二戸)との相関関係はかなり高く、ほぼ同一に近いものと思われる(北本宿 二四一)。
当時の北本では乳牛飼育農家五十一戸、役牛馬飼育農家一五八戸、緬羊(めんよう)、山羊(やぎ)、豚などの中型家畜飼育農家は二八三戸で、このうちの大部分が養豚農家であった。このことから分るように大・中家畜の飼育農家は全農家の一~二割にすぎず、飼育規模も平均一戸一頭であった。いわば少数農家の少頭飼育であった(北本宿 六七四)。また、昨今と異なり養蚕農家も三九〇戸と多く、このため北本は隣接の川田谷村(現桶川市)とならんで、大宮台地の農村において屈指の養蚕地域を形づくっていた。
この頃の北本の農産物をみると、まず主な畑作物としては、穀類・いも類などのいわゆる澱粉(でんぷん)質食品が延べ作付面積のおよそ八十パーセント近くを占め、きびしい食糧難と作付統制の世相を反映していた。とくに陸稲、大麦、小麦および甘藷(かんしょ)、馬鈴薯(ばれいしょ)はすべての農家で栽培され、このうち麦類は中山道麦の名のもとに世間に広く知られていた。ただし、水稲栽培農家は台地農村という地理的性格に影響され、全農家の六十パーセント弱にすぎなかった。このことが後に陸田水稲栽培の普及の引き金の役を果すことになるわけである。
一方、野菜類の栽培は、昭和二十四年の野菜統制の解除と東京近郊という恵まれた立地条件にもかかわらず、なす、だいこん、ねぎの普及率だけは一〇〇パ—セントに近いが、栽培面積はごく少なく、自給的生産の枠内にとどまっていた。こうした状況の中で、ぶどう栽培農家五十二戸(一ヘクタール)の存在は、伊奈村(現伊奈町)、加納村(現桶川市)の梨栽培とともに異色であった。きびしい戦時統制経済の中でどうして生き残れたのか不思議である。推察するに、軍用酒醸造(じょうぞう)か軍関係病院用果実として栽培を許可され、抜根(ばっこん)のうき目にあわずに残ったものであろう。あるいは戦後の新植か、ともあれ詳細は不明である。
北本の畑作で変り種といえば、野菜の採取圃(さいしゅほ)とその栽培農家が多いことも大宮台地農村の中で際立った存在であった。とくに葉菜類、根菜類(こんさいるい)の採取圃がめだっていた。これらは栽培面積からみて、いずれも当時としては数少ない商品作物だったといえる。

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