北本市史 通史編 現代
第1章 戦後復興期の北本
第3節 食糧増産時代の北本
3 乏水台地(ぼうすいだいち)と農業用水計画
事業計画の推進と計画内容の変遷(へんせん)大宮台地の農業用水事業計画は、これまでにもしばしば問題になってきた。たとえば、昭和十五年には旱魃(かんばつ)対策の基礎作業として、埼玉県が台地全般についての概測(がいそく)を行っている。同十八年には旱害対策実行会がつくられ、関係市町村の連署(れんしょ)をもって県に陳情(ちんじょう)が行われた。しかしいずれの場合も、用水源の確保が困難であるとの理由から、具体案の作成をみることなく挫折(ざせつ)してしまった。
農業用水事業が具体的な姿をもつて浮上してくるのは、終戦直後の二十年九月の埼玉県耕地課・三輪野富美男・塚根正の調査立案になる「仲仙道開発計画概要」においてである。これによると、事業目的は二〇五〇町歩の天水田の補給水の確保、平地林四〇〇町歩の畑開墾、畑一〇〇町歩の開田化、湿田改良による二毛作田の造成などであった。
計画実現のための用水対策は、福川吐口(はきぐち)付近に樋管(ひかん)を設置し、一秒間に五.五六トンの水を酒巻導水路(さかまきどうすいろ)から新忍川(しんおしがわ)に導き、箕田(みだ)村大字箕田地先で台地上にポンプアップすることになっていた。所要事業費は一〇二〇万円が見込まれていた。
昭和二十一年七月三十一日、県の調査報告をうけて大宮市ほか関係十八市町村は県議会議事堂に会し、計画の早期実現のための懇談会を開いて、県知事宛の「高台地の調査促進」に関する陳情書提出を決議する。翌二十二年、大宮台地の農業用水事業計画は、「国営調査」として国に採択され、間もなく農林省埼玉農業水利調査事務所により「埼玉県仲仙道筋用排水改良事業調査計画」が策定される。
調査計画書の策定にあたり、水利調査事務所は水源開発に対して最も慎重かつ精力的に調査努力を注いだ結果、先きの「仲仙道開発計画概要」に示される福川吐口取水案を、最善の策としてそのまま継承することになった。総事業費は一億五一五〇万円、事業期間は昭和二十三年度から同三十三年度の計十一か年が予定されていた。
本格的な事業の実施に必要な精密測量については、至急これに着手すると同時に、関係市町村に対する全面的な協カ要請がなされた。取水・揚水地点や、幹線水路の決定に必要不可欠な測量期間は、昭和二十二年六月十一日~十月八日までとし、人夫延人員三〇六〇人を動員する予定の大がかりなものであった。測量調査事務所は北本宿、上尾、大宮の三か所に設置し、作業の進捗(しんちょく)により順次移動することになっていた(現代No.八十四)。
こうして実測段階を迎えた昭和二十二年六月までに内務省出張所の許可がおり、昭和二十年度の県会でも調査費の支出が可決され、さらに二十二年四月一日、戦時中の旱害(かんがい)対策実行委員会を母胎(ぼたい)とする「仲仙道両側用水速成期成会」が結成され、ここに宿願の地元、県、国を挙げての農業用水事業の実現に向けて万全(ばんぜん)の態勢が整うことになる。
この時点での期成会加入市町村は大宮・指扇(さしおうぎ)・馬宮(まみや)・植水(うえみず)(以上現大宮市)、大久保・土合(つちあい)(以上現浦和市)、与野、上尾・原市(はらいち)・平方(ひらかた)・上平(かみひら)・大石(おおいし)・大谷(おおや)(以上現上尾市)、伊奈、桶川・川田谷・加納(以上現桶川市)、北本宿(北本市)の一市十七町村であった。
「ないないづくし」の時代の測量作業は困難を極めた。泊り込みで作業する測量担当官と雇員(こいん)のために、関係市町村は食料と燃料を負担することになった。最初の測量地区である北本宿グループの町村(川田谷、上平、加納、桶川、伊奈)の場合、米は一町歩当たり四合、薪(まき)は各町村四十束を北本宿村役場まで持ち寄った。このほか、各市町村からの納入金で自炊用の鍋、釜、食器類から風呂桶、風呂釜まで整え、ともかくも当初の予定を二か月も短縮した八月五日に、全作業を終了することができた(現代No.六十六)。
その後、大宮台地の農業用水計画は「見沼(みぬま)代用水路改良事業計画」の一環に組み込まれ、名称も「荒川左岸用水事業」と改められた。これに伴い、取水地点と水源が福川吐口(はきぐち)から見沼代用水元圦(もといり)の下流十キロメートル地点の北埼玉郡広田村(現川里(かわさと)村)に変更された。広田村地内で取水した用水は断面下幅一.三メートル、同上幅六.三メートルの新設用水路で箕田(みだ)村大字八幡田(はちまんでん)まで導かれ、ここからニ〇〇馬力の揚水機三台で台地上にポンプアップすることになった。水源変更とともに事業目的にも若干の変更が生じ、天水田に対する用水補給のほかに畑地灌漑(かんがい)が新たに加わった。