北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第6節 混乱期の社会生活

2 交通網の整備

高崎線完全電車化へ
電化は実現したものの、列車の混雑は依然緩和(かんわ)されなかった。そのため、今度は、一車両の乗客数の増加、車両数の増加、さらに運転本数の増発を可能にする完全電車化が強く要望されることとなった。
昭和二十九年三月、大宮市以北の県内の沿線各市町村代表が集まり、「高崎線電車化促進同盟」が結成され、完全電車化の実現に向け積極的な運動が開始された。県議会でも二十九年六月には、「高崎線完全電化促進に関する陳情書」を関係各方面に提出したが、その中で、「・・・電化したとはいえ、未だ電車化されるには至ってはいない。近時大宮以北高崎間は、すでに東京都の通勤区域内にあり、その郊外都市として住宅化し、都内え(ママ)の通勤者はとみにその数を増している現況で、朝夕の通勤時には県民はもとより、通勤者の不便は言語に絶するものがある。これが打開は、高崎線を完全電車化し、都内え(ママ)の交通をスピード化する以外には方途(ほうと)はない・・・」(『埼玉県議会史第八巻』P 一〇五〇より引用)と完全電車化要求の理由にふれている。都内への通勤者を中心に毎年ふくれあがる異常な交通混雑を緩和するためには、すみやかに電車化を実現する以外方策は無かったのである。

写真15 北本宿駅構内の高崎線

昭和33年ころ 北本

次いで、昭和三十一年二月には、沿線市町村長、議長、県議会議員らにより、「高崎線電車化促進期成同盟」が発足し、電車化の促進運動が強化されることになった。これらの運動の成果が結実(けつじつ)し、電車運転の計画が発表されるはこびとなったが、計画では同年十一月から運転が開始されるとあり、そのためのホ—ム延長工事も急ピッチで行われた。
十一月十九日完全電車化が実現されたことにより、利用者、特に通勤者にとっては従来よりもずっと便利なものとなった。電車のスピードアップが可能となり、北本から上野まで最短五二分で行くことができるようになった。さらに、車両数の増加がはかられ、運転本数の増発も可能となり輸送能力が大幅に向上した。
都心からの交通の便がよくなることは、高崎線沿線への人口流入をもたらし、高崎線利用客の増加をも意味した。こののちの沿線の人口増加による利用者の急増は、高崎線の本数増発による輸送力の増加を常に超えていた。そのため、混雑の度合は文字通り年を追うごとに増えていき、朝のラッシュ時には乗りこぼれがでてしまうという状況も生じたため、再び増発の陳情がされた。
ほぼ同時期の昭和三十三年、熊谷市で京浜東北線の熊谷までの乗り入れが決議され、沿線住民と協力促進していくことが話し合われた。沿線の各市町村がこの問題でかかえている事情はほぼ同じであり、「大宮・熊谷間京浜型電車乗入促進期成同盟会」では、三十七年、京浜東北線の熊谷駅までの延長運行の陳情を行った。同会は、上尾から熊谷までの沿線各市町村長で構成され、この後の京浜東北線延長運行陳情の中心母体となっていったのである。

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