北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第6節 混乱期の社会生活

2 交通網の整備

高崎線電化の陳情と実現

写真14 高崎線電化期成同盟会発表式

昭和21年ころ(加藤一男家提供)

市内を走る唯一の鉄道路線であるJR(当時国鉄)高崎線が電化されたのは、昭和二十七年四月のことであった。電化に際し、沿線住民、沿線各市町村長並びに同市町村議会・県議会など多くの関係者による長年にわたる請願、陳情がなされたことは、この問題がいかに重要なものであったかを物語っている。
高崎線の電化要望はすでに戦前から行われていた。戦争により中断されたこの運動は戦後まもなく再開された。昭和二十二年十一月着工となった電化工事は、高崎線よりも電化を優先する路線が生じたためにまもなく中止となった。そのため埼玉県議会では、翌二十三年六月「高崎線電化促進に関する決議」を行い、「一日も速やかに電化の完遂(かんすい)に向かって工事進行を図(はか)られんこと」を請願した(『県史通史七』P 六一二)。この動きは県議会だけでなく各方面からも活発に行われた。昭和二十四年一月十四日の『埼玉新聞』には、「高崎線大宮、高崎間の電化を陳情する沿道民は、十四日、沿道町村民代表鴨田熊谷市長及び、県促進連盟を西村知事が代表、二十四年度に実現するよう今年初の陳情する」と報道されているが、これも陳情・請願運動の一端をうかがわせるものである。これらの運動が実り、二十六年度に着工されることが内定した。
電化工事進行の予定は、昭和二十七年三月中に工事を完成し、四月に開通式を行うという短期間のものであり、そのため工事は大変に急がれた。二十七年四月一日、沿線住民の一〇年以上に及ぶ悲願が実現された。電化により、従来の蒸気機関車が電気機関車に代わり、上野ー高崎間が平均一五分程度短縮されることになり、利用者にとって便利なものとなった。しかし、増発される本数は期待していたほどのものではなかったので、以後は新たな増発運動が展開されることになった。

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