北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第7節 民主化される教育

1 混乱の中の教育現場

教えることが変わる
終戦の年もおしつまった昭和二十年十二月三十一日、 「修身(しゅうしん)、日本歴史及び地理停止」に関する通達が出された。これは、「日本政府ガ軍国主義的及ビ極端ナ国家主義的観念ヲ或ル種ノ教科書二執拗(しつよう)二織込ンデ生徒二課シカカル観念ヲ生徒ノ頭脳二植込マンガ為メニ教育ヲ利用セルニ鑑(かんが)ミ・・・指令ヲ発スル」とあるように、軍国主義や極端な国家主義思想を児童達に吹き込んだ教科をGHQの許可があるまで授業を停止するものであった。この通達の中には、これらの教科の教科書を全部回収すべきことも含まれていた。中丸国民学校でも、この三教科の授業停止が行なわれ、二十一年一月十五日、三教科の教科書が全部回収された。
三教科の授業停止によって生じた時間は、他の教材や学力補充、体育、食糧増産などにあてられることとなり、回収した教科書は、当時不足していた製紙の原料として再生産に回された。
昭和二十一年四月、新年度が始まった。中丸国民学校では二十一年度の学校経営上の努力点が次のように定められた。
○経営上の努力点
イ、自学的学習への補導
ロ、学校の民主化
ハ、社会生活への啓培(けいばい)
○実際面の方針
(1)教科学習に関するもの
イ、学習研究会教科課目又は学年別に行う
 「お話の会」、読書会、質疑討論会等を開き、実力の養成に努む
(2)社会生活に関するもの
イ、自治会(学校、学年、学級)を開き自治的社会生活の補導をなす
ロ、少年団を置き、社会生活の基礎を培(つちか)う
ハ、日常生活、学習共に予定、約束、責任、反省を重んじ、自主活動をなさしむ

 (『中丸小学校八〇年史』P ー八二より引用)


写真18 終戦後間もないころの通信簿

昭和22年(『中丸小学校80年史』P192より引用)

どこの学校も新しい教育をどのように進めていくか、とまどいながら模索(もさく)していた時期であった。戦争中停止していた、遠足、運動会、学芸会も復活することとなった。
授業停止措置をうけていた三教科のうち、地理は二十一年六月、日本歴史は同年十月に授業再開の許可が出された。しかし、いずれも「文部省によって編纂(へんさん)(日本歴史については準備)され連合国最高司令部の承認を経た教科書のみが用ひられるといふ条件」がつけられていた。また、修身(しゅうしん)は廃止となった。
昭和二十二年三月から、文部省は初めて学習指導要領を発表した。これは、昭和二十二年度に発足する新制小、中学校の教育課程の編成のために作成されたものであった。小学校の教科としては、戦前の修身、公民、日本歴史、地理が廃止され、新しく社会、家庭、自由研究が設けられた。新しく誕生した社会科についてはすでに、二十二年一月、東京港区立桜田国民学校で実験授業が行われていた。実験授業の「郵便ごっこ」は大変な反響を呼び、社会科に対する自信を全国の教師に植えつけることとなった。社会科の授業が全国で開始されたのは二十二年九月である。社会科は子供の生活経験を重視する教科である。その授業が開始されると、生活経験を重視するカリキュラムの自主編成がさかんになった。カリキュラム運動を全国的に広めることとなったのは、埼玉県川口市で行われていた「川口プラン」であった。「川口プラン」がきっかけとなって以後全国的にカリキュラムブームは高まり、二十年代後半まで続いていった。

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