北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第7節 民主化される教育

2 教育制度の民主化

六三制と石戸中、中丸中の発足
学校教育法が施行されたことにより 国民学校の初等科は小学校、高等科は中学校と改められ、従来大変複雑であった学校体系は、小学校六年、中学校三年という単線型の体系に変わった。この際、昭和二十二年三月に国民学校初等科六年を修了する者は全て新制中学校の一年に入学することになった。また、国民学校高等科一・二年生は、昭和二十二年度については、希望者のみが、それぞれ新制中学校の二・三年生へと進級した。

写真19 中丸中学校の先生と生徒たち

昭和22年ころ(小林亘一家提供)

北本では、石戸国民学校は石戸小学校と石戸中学校に、中丸国民学校は中丸小学校と中丸中学校にそれぞれ分離して、当初は石戸小・中丸小に同居のかたちで新しく発足することとなった。中丸中は発足当時従来からの北本宿青年学校を併置していたが、昭和二十三年三月三十一日に青年学校が廃校となったことにより併置を解かれ、単独の学校となった。中丸中は発足した二十二年度は六学級二四三名で、内訳は一年三クラス一三九名、二年二クラス八一名、三年一クラス二三名であった。一年生に比較して二、三年生が少ないのは、既述のように、二十二年度は二・三年生が義務制度ではなかったからである。二年後の二十四年度は、七学級四三四名、一年二クラス一四四名、二年三クラス一六〇名、三年二クラス一三〇名となり、各学年の生徒数も同程度で、新学制が定着しはじめたことを示している。また、同中では二十三年度の教育努力点について、
一、自主的活動の強調
一、学級自治体制の実施
一、学力の涵養(かんよう)
に重点をおき、新教育の精神に基づいて早く実りをあげるために、教職員が一丸となり努力を重ねていた。
六・三制実施の際の最大の問題はすでにふれたように、新たに発足した中学校の校舎、教室をどうするかであり、全国各市町村の首長を大いに悩ませた。六・三制は発足したものの、財政的に苦しい中でのスタートであり、中学校校舎の建設は順調にはいかなかった。そのため、本来は教室としての使用がふさわしくない場所が教室となった。寺院、作業場など学校以外の建物が使用されたり、学校内でも、廊下、物置が急造の教室となることも多かった。馬小屋が教室になった学校さえあった。石戸中は旧石戸国民学校の講堂、東校舎を教室として使用し、昇降口が職員室となった。中丸中では、旧中丸国民学校の一部である南校舎一棟三教室と、旧中丸村役場庁舎一棟を教室として使用し、さらに二十四年度からは一クラス増えたため、多聞寺(たもんじ)本堂の一室を借りて教室とした。石戸中、中丸中とも小学校との同居であり、独自の校地も校舎もない不便な中でのスタートであった。
六・三制の実施に際しては、先生不足も大きな問題であった。校長は先生確保に奔走(ほんそう)したが、教員の中には退職希望者も多く、十分な人数を確保することは難しかった。そのため、助教諭の採用や学生を講師として採用することにより先生を確保せざるをえない状況であった。中丸小での助教諭採用数は、昭和二十一年度三名、二十二年度二名、二十三年度五名、二十四年度二名であった。中丸中での二十四年度の教員構成は、教諭七名、助教諭二名、講師五名であり、先生確保に苦慮していた状況をうかがうことができる。

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