北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第7節 民主化される教育

4 社会教育と戦後宗教界の変革

新宗教の動向
市域の新宗教団体である天理教石戸分教会は、前述の宗教法人令に基づき、宗教法人としての転身を図り、昭和二十一年六月に天理教管長承認のもとに宗教法人教会設立の届書(近代NO.一九二)を県に提出し、「天理教石戸分教会」として再発足した。これはあくまで法令施行上での措置であったため、教会の所在場所や所属教派、主管者新井万吉は従前通りであった。但し、設置目的については「世界救(ママ)へノ為天理教ノ教義ヲ信奉宣布シ、其ノ祭典儀式ヲ執行スル」こととし、時勢に呼応して「世界救へ」の視点を導入し今日に至っている。
一方、解脱会も昭和二十一年十月に解脱教会設立届(現代NO.一九三)を提出している。それによると会は従前通り真言宗醍醐派に属し、大日如来を本尊として「真言ノ法教ヲ弘通シ修験ノ道風ヲ宣揚シテ済世利人ノ実ヲ挙クル」ことを目的としていた。届書には全二四か条に及ぶ「修験教会規則」(現代N0.ー九四)が添付されており、終戦直後の同会の本義、組織、事業、財務等について窺うことができる。次いで翌二十二年三月、前年九月に定められた「解脱報恩感謝会規約」に基づき、東京都四谷区荒木町に設置されていた感謝会の教団事務所を北本宿村大字北本宿五四四ノ五に移した(現代NO.一九七)。この年、解脱会は真言宗醍醐派から分離独立し、独自の歩みを始めている。その矢先の翌二十三年十一月、会祖岡野聖憲の死去に遭遇した。
その後同二十六年四月、「宗教法人法」が公布されると同二十八年一月九日に宗教法人として登記、会は一層の発展に努めた。昭和三十三年には立教三〇周年記念事業を行い、霊地に社殿、修練道場を建設、全国にプロック制度を布くなど会の整備充実を図り、同三十六年には教団名を再び「解脱会」に復した。かくて解脱会は年々信者を拡大し、現在では信徒二四万人を数えるまでになった。支部数も全国各地で三八〇を超え、アメリカ、ブラジルにも布教の拠点を持ち、国内だけでなく海外でも活発な布教活動を続けている。
また、その他の新宗教として、石戸八五九番地には天御中主神、高皇産霊大神他五柱を祭神とする教派神道系の光徳教足立分教会が置かれ(『埼玉県市町村誌第四巻』P三四)、林角太郎が主管していたが、昭和四十八年一月、角太郎の死去により、程なく廃されたという。

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