北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第2節 北本市の発足と市政の展開

2 市政の展開

公共下水道事業の幕明け
荒川左岸に位置する熊谷以南十三か市町村(筆者注、この段階 では行田市はふくまれていない)を連ねる公共下水道、すなわち荒川左岸流域下水道の計画は昭和三十九年に遡(さかのぼ)り、同年に建設・厚生両省の委託調査が行われたことに始まる。昭和四十一年には、上尾以南八市を対象に第一次計画が実施されたが、桶川以北は第二次計画地域とされ、未着手のままだったのである。第一次計画地域の人口が当時すでに約九十万、それにくらべて第二次計画地域では約二十万(うち、熊谷約十万)であり、桶川以北ではそれほど都市化が進んでいなかったためである。
しかし桶川以北においても次第に住宅・工場が増加し、第二次計画の気運が高まった。昭和四十二年十二月に関係三市三町(桶川・北本・鴻巣・吹上・行田(ぎょうだ)・熊谷)の連絡会議、続いて昭和四十三年七~八月になると、事業決定の目標を昭和四十四年中とし、そのためのマスタープランを作成すること、期成同盟会を組織することなどを決定した。折しも各地で大気汚染や水質汚濁(おだく)などの公害が深刻化し、その対策の一つとして、昭和四十二年度から公共下水道に対する国庫補助金が十分の四に引上げられ、これに呼応するかのように同年十月、埼玉県議会は荒川流域下水道事業の促進について、次のような決議をした。
首都東京に隣接する本県は、近年異常な人口増加と産業の発展により、住宅工場等からの排水は河川を著しく汚濁し、用水としての水質保全が困難となりつつあり、一部流域においては、その公害の発生も見受けられ、県民の生活をおびやかすまでに至っている。
かかる情勢下にあって、荒川左岸流域下水道事業は順調に進捗しているが、他の市町村にあってはこれが対策に努力しているにもかかわらず、所期の効果があがっていない実情にある。
よって、県においては市町村の下水道計画を樹立するとともに、一体としての広域公共下水道計画を樹立し、その整備促進に努力されるよう要望する。
以上決議する。

この決議の二日後、熊谷において期成同盟会が設立され、さらに同会は昭和四十二年二月、発展的解消をとげ、荒川左岸流域下水道第二次組合に改組された。期成同盟会から事務組合への改組について、関係市町長から埼玉県知事に宛てた許可申請書には、次のように理由が述べられている。
(前略)昭和四十三年十月二十五日関係四市二町(桶川市・北本町・鴻巣市・吹上町・行田市・熊谷市)により第二次事業促進期成同盟会を結成し、第二次事業の早期実現について努力を重ねてきた結果(現代 三十四)、昭和四十五年度に県費をもって第二次基本計画説明書が作成され(後述)、荒川処理区と元荒川処理区とに分離した計画となった。
これにより県の方針として、第二次事業の計画決定を昭和四十五年度中におこない、昭和四十六年度から処理場用地の先行取得、昭和四十七年度工事着工と予定されるはこびとなった。
この県の方針を、計画どおり実施して行くには、(中略)一部事務組合を設立し、県から事業執行の委託を受けることが唯一の方法と結論されるに至り、(中略)ここに許可申請をする次第(後略)。

申請後間もなく事務組合は認可され、広域公共下水道建設(県営事業)の地元の準備は整った。なお同組合規約によって、管渠(かんきょ)の負担割合は熊谷四九.〇七パーセント、行田十五.三七パー七ント、鴻巣十.七七パーセント、桶川七.七〇パ—セント、吹上九.〇五パ—セント、北本八.〇四パーセントとなり、また終末処理場の負担は、関係市町の人口割と定められた。

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