北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第2節 北本市の発足と市政の展開

3 「緑に囲まれた北本市」づくり

北里研究所の農事試験場跡地移転
農事試験場(圃場(ほじょう)二十六ヘクタ—ル、宿舎用地三ヘクタール、計二十九ヘクタール)の筑波移転(つくばいてん)は、昭和五十四年十二月に完了した。その跡地利用について、第一次総合振興計画では「市民の憩いの場とするため」と「地域医療体制確立のため」有効利用を進めるとしており、公園または医療機関の誘致を構想していた。市議会も昭和五十二年十二月、特別委員会を設置し、跡地利用について審議を重ねてきたもので、結果は医療機関誘致(ゆうち)に決したが、いずれにしても第一次総合振興計画の一環をなすものであった。
まず、跡地利用が北里(きたさと)研究所の誘致に決するまでの経過について、特別委員会委員長報告(昭和六十年度第四回定例会議事録)をもとに、『農事試験場跡地開発計画書』『北里研究所メディカルセンター計画書』などで補足しつつ概観(がいかん)しよう。
○ 昭和五十三年十一月 大蔵省国有財産中央審議会筑波移転跡地小委員会が「将来の都市計画のために利用計画の決定を留保する」との試案を発表したため、早期解除の要望書を提出。
○ 昭和五十五年 日大医学部の誘致が検討されたが、大学側の都合で断念。五十八年まで大学医学部の誘致を主眼に県に働きかける。
○ 昭和五十八年 県より医療機関の進出計画と野鳥の森計画について説明があり、大蔵省の留保を早期解除するための陳情を要請される。
○ 昭和五十九年五月 大蔵省関東財務局から非公式に、北里研究所の払い下げ要望に関し、跡地開発についての北本市の要望とりまとめの依頼をうける。
○ 同年八月 北里研究所長より埼玉県医師会長宛施設建設承認書提出。十月県医師会長より施設建設承認を通知。
○ 同年十月 北里研究所長より北本市長および埼玉県知事宛、メディカルセンター建設について協力要請。
○ 同年十一月 北里研究所による地元医師会、北本市議会および市幹部職員に対する事業計画説明会。
○ 同年十二月 国有財産関東地方審議会、北里研究所へ国有地を売却、ただし〇.七七へクタールは道路用地として北本市へ無償貸与を答申。
○ 同年同月 北里研究所より大蔵大臣宛、国有地払い下げ申請書提出。
○ 昭和六十年六月 北本市長宛立地申請書受理。翌月同意を回答。
○ 同年十月 『北本市開発指導要綱』に基づく協議。
○ 同年十二月 埼玉県知事、立地を承認。
先にもふれたように、第一次総合振興計画には二つの利用計画があった。しかし以上の経過をみれば明らかなように、当初から憩いの場よりも医療施設、とくに医大誘致に力点がおかれていて、日大医学部の誘致を断念した後も、県立医大を設立する働きかけが続いた。他方、これと並行して埼玉県環境部による野鳥の森計画があり、県・市・関係団体などの思惑(おもわく)が錯綜(さくそう)している間に、北里研究所の移転が具体化してきた。
昭和五十九年五月大蔵省から跡地開発について、非公式に要望のとりまとめを依頼されたとき、北本市が提示(ていじ)した要望は自然の保全、周辺をふくむ道路・水路の整備、体育・集会施設の一部開放、地元住民の雇用などの五項目であった。これを大蔵省が北里研究所にどのように伝えたかは不明であるが、数か月後に北本市長宛『北里研究所メディカルセンターの北本市内への立地について』の協力要請があったから、大筋で諒解(りょうかい)に達したのであろう。以後、北里側は必要な法的手続きと地元説明会などを続けた。

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