北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第2節 北本市の発足と市政の展開

3 「緑に囲まれた北本市」づくり

北里メディカルセン夕—と北本市の対応
北本市長への協力要請の際、北里研究所が示したメディカルセンター構想とは、次の1~5の施設であったが、これらの施設の概要を『北里研究所メディカルセンター事業計画書』(農地転用申請書添付)で補足して示すと次のとおりであった。(☆印を付した施設が補足部分である)
  • 北里研究所第二総合病院(五〇〇床)新設
    ☆病院棟 地下一階・地上六階延二万二四七五平方メートル、職員数一五〇人
  • 東洋医学総合研究所支所(本所の研究部門の一部移転)および薬草園新設
  • 医薬品研究棟(本所の研究部門の一部移転)および製造棟の移転(各地に散在する既設棟を統合し、拡張する)
    ☆基礎臨床医学研究棟 地上五階延九一八八平方メートル 職員数一ニ七人
    ☆製造研究棟 地下一階・地上五階延九一八八平方メートル、職員数(付属棟とも)ニニ七人
    ☆製造研究棟付属棟 地上一階(鉄骨)延一五九三平方メートル
    ☆製造研究棟付属棟 地下一階・地上二階延一六〇〇平方メートル
  • 薬品安全研究所新設
    ☆薬品安全管理研究棟 地上四階 延六二八八平方メートル、職員数五十人
  • 医療技術専門学院新設
    ☆医療技術専門学院 地上三階延二四九三平方メートル 職員数三十三人、学生二四〇人
注1 北本市長宛協力要請の際のベッド数は五〇〇床であったが、その後医師会の申し入れにより、二〇〇床に変更された。なお、医師会が同意の条件として提示したのは、ベッド数のほか次の三項であった。 ① 地元医師会も参加できる講演・研究会を開催すること。
② 高度救急医療機関として機能させること。
③ 外来を完全な紹介診療制とし、後方病院の役割を果すこと。
注2 ☆印の施設中、製造研究棟付属棟一棟のみが鉄骨、他はすべて鉄筋構造である。鉄骨建物は地震の際、実験動物などが拡散する危険防止のため、耐震強度を強化したものと思われる。
注3 以上にあげた施設のほか、住居棟十一棟、管理棟二棟、体育館などがあるが省略した。

メディカルセンターの構想は、およそ以上のような大規模なものであり、それへの対応策として農事試験場跡地利用特別委員会は、次の四項を指摘した。それは先に、大蔵省を通じて非公式に伝えた事項と重複するものもあるが、要約して示しておく (北本市資料)。
一、 医療に関する諸問題(一部抜粋)
外来は完全な紹介制となっているが、直接診療ができるよう行政努力をすること。
二、 開発・建設に関する諸問題
  • 自然保護対策について。緑地保全のため、具体的計画をもって、北里・県に要請すること。
  • 道路網の整備に伴う負担について、上尾バイパス・西中央通線の建設、南大通線の延長、川田谷(かわたや)鴻巣線・関係市道の拡幅および歩道整備などを促進し、北里側にも相当の負担を求めること。病院と駅間バスを確保し、西口発着所を整備すること。
  • 水道使用最の増大について。井戸の掘削(くっさく)を不許可とし、地下水の保全と県水の有効利用を図ること。雑排水の確実な処理を図ること。
  • 八重塚古墳(やえづかこふん)など史跡保存対策を強化すること。
  • 地元代表の意見を間く機会をもつこと。
三、 財政等に関する諸問題
  • 固定資産税などの課税について。減免の要請に対し、厳しい態度で臨(のぞ)むこと。
  • 地元雇用・地元購入の優先を考慮すること。
四、 その他
  • スポーツ施設・厚生施設を開放すること。
  • 防火・防災対策について。独自の体制をもつように指導すること。

以上の指摘を踏まえて、昭和六十年十月から事前協議を行い、同年十二月合意、翌年三月に十二か条より成る『北里研究所メディカルセンター開発に関する協定書』を交換した。事前協議は『開発に関する指導要綱』に基づくものであったから、跡地利用特別委員会の指摘事項のすべてが対象になったわけではないが、同協定書には道路、排水施設、自然公園、消防水利、ゴミ・汚泥(おでい)の処理及び費用分担などについて、具体的に合意内容が記載されている。その中で道路についての記載は、およそ次のとおりであり、最も詳細で中心的な協議事項であったことを思わせる。
  • 県道川田谷鴻巣線から用地内を縦断し、市道十号線に至る区間を十ニメートルに拡幅(かくふく)改良する。ただし、費用は用地内は乙が全額、用地外周部は甲・乙の二分のー負担とする。
  • 市道ニ一七号線・二六〇号線の改良整備をする。ただし、費用は甲乙の二分のー負担とする。
注、文中の甲は北本市、乙は北里研究所をさす。

写真40 北里研究所メディカルセンター病院の屋上からの風景

平成4年 荒井

以上のような経過を経て、昭和六十二年九月から第一期工事(病院棟建設)が始まった。ところが着工後しばらくすると、第二期工事の研究棟の安全性についての疑問が表面化した。協定書を交わす段階で、安全性についての協議がほとんど行われなかったらしく、このため新たな対応を迫られることになった。

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