北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第3節 都市化の進展と農業の変貌

1 高度経済成長と農業の近代化

農業基本法と農業構造改善事業
経済の高度成長によって生じた農工間所得格差を是正するために、昭和三十六年に農業基本法が制定された。その中で、基本法農政の理念を実現するために三本の政策体系が樹立された。三本の政策体系とは所得政策・生産政策・構造政策のことである。かんたんにいえば、生産基盤である田畑を整備し、省力機械化体系を確立することで生じた余剰(よじょう)労働力を、新しい農産物需要動向に合わせた農業部門、つまり酪農・畜産・果樹・野菜等の生産に振り向けるというものであった。いわゆる選択的拡大再生産の展開による所得水準の向上を目指したものである。農業構造改善事業は、こうした目的を実現するための手段として、全国の市町村を対象に実施されることになった。
これを受けて北本でも、国(農林省)の農業構造改善事業を導入するため、荒井・高尾地区と下石戸地区を対象にして案が練(ね)られた。両地区とも土地基盤整備一大型農業機械の導入ー果樹・畜産・野菜部門の確立という点でまつたく共通していた。しかし、国・県との折衝(せっしょう)過程で、国営事業の導入は下石戸下地区に絞られ、荒井・高尾地区は後に県費単独事業として施行されることになる。
昭和三十九年認可、四十年着工予定の下石戸下の農業構造改善事業地区は、ほぼ同時期着工された桶川の江川流域農業構造改善事業地区の上流部に連接し、参加農家はニッ家(十)、下久保(十七)、原(四十)、上手(うわで)(八)、台原(だいはら)(二十三)の合計九十八戸、圃場(ほじょう)整備面積は田畑合計五十一ヘクタール、事業費およそ三五〇〇万円であった。当時の下石戸下地区の農業は水陸稲、麦に若干の落花生(らっかせい)と野菜を配したどちらかというと普通畑作型の経営であった(現代No.八十五)。

写真48 江川下流から北本団地を望む

平成4年 桶川市

これに対して、事業計画は基幹作物を露地野菜と落花生に定め、補完作物に麦をあてていた。いわば、普通畑作農村から近郊野菜作農村への脱皮を図ったわけである。しかしながら、参加予定農家の七十パーセント近くが〇.五ヘクタール未満という零細農家群によって占められていたにもかかわらず、土地利用型の露地野菜、工芸作物を基幹部門に設定したため、事業効果は期待できず、北本の農業を代表するようなモデル地区になる見込みはなかった。このため、事業計画実施予定直前になっても一部農家の同意が得られず、計画は振り出しに戻った。町当局は事態を重視し、計画を断念することにしたが、県当局等の仲介指導に基づいて、土地基盤整備事業計画は放棄するが、代替事業としての共同温室、球根温度処理場を作ることで決着した。
結局、下石戸下農業構造改善事業計画は、単なる近代化施設整備事業に終わるわけであるが、この選択は、ある意味では時の流れと地域農業の生産力にかかわるポテンシャルを考えた時、一応妥当な決定ーー税金の無駄遣いをしないで済んだことーーとみてよいだろう。しかも、この地区は構造改善事業計画の放棄を待っていたかの如く、日本住宅公団の三十万平方メ—トルにも及ぶ巨大な団地造成計画が浮上してくる。もちろん、重複すれば、農業投資効果は都市計画事業によってまつ殺されてしまった筈(はず)である。ともあれ、「農業計画から都市計画へ」の変更、これこそ当時の北本の変化を象徴する問題だったのである。
国営事業以外の農業構造事業は、先に述べた荒井・高尾地区と中丸地区に、それぞれ県費単独補助事業いわゆる県単事業として施行された。このうち荒井・高尾地区では、昭和四十二年に三か年計画の土地基盤整備事業として農道、畑地灌漑(かんがい)、圃場(ほじょう)整備が行われ、防除機が導入された。事業目的は米・野菜•果樹の作物別営農集団の育成と、採種パイロット集団及び畑地灌漑による野菜モデル地区の育成であった。なお、事業総額は下石戸下地区の事業を上回る約七二〇〇万円であった。
土地基盤整備事業を主体とした荒井・高尾地区に対して、中丸地区での県単農業構造改善事業は集荷所、選果機、スピードスプレイヤー等の近代化施設の重点的整備を図るものであった。事業は昭和四十一年度より二か年計画、総予算八三八万円をもって、果樹生産の発展を目指して進められた。しかしながら、こうした一連の事業による生産基盤づくりや近代化施設を利用した農業経営が「自立」の花を咲かせる前に、近郊都市北本の農業は激しい都市化の波ーー労働力の流出と宅地化の進行ーーによって、停滞の彼方(かなた)に押し流されていくことになる(現代No.八十七)。

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