北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第3節 都市化の進展と農業の変貌

2 都市化と農業の変貌

減反政策の展開と農家の対応
米の年間消費量は昭和三十七年度をピークに減少に向かう。一方、生産量は昭和四十年代に入って反収(たんしゅう)四十キログラムを安定的に上回り、需給関係を大きく逆転させていった。こうして食管会計の維持を建前とする米の生産調整計画が浮上し、以後、昭和四十五年度の試験的実施を皮切りに、三期にわたる米の減反(げんたん)政策の展開をみることになる。
生産調整の第一段階は、昭和四十六年度から五十年度にかけて推進された「稲作転換対策事業」である。この段階では減反に重点が置かれ、四十八年度まで単純休耕も認められていた。この段階の減反政策はその後の一律配分方式と異なり、地域によって割当量が異なる傾斜配分方式が採用された。その結果、埼玉県全体(六〇〇〇ヘクタール)の約ニ十二パーセントが、都市化の進んだ大宮・岩槻(いわつき)台地関係の六市町村に割り当てられることになった。国の米生産調整に対する農家の対応は、台地北部農村では陸田の転作と谷津田(やつだ)の休耕、台地南部農村では谷津田の休耕というのが一般的であった。
表35 水田利用再編対策事業実績  (単位:ヘクタール)
年度(昭和)転作目標面積特定作物永年性作物一般作物等管理預託実積算入措置他用途米生産面積合 計達成率 (%)
535033.51.817.43.756.4112.8
545031.91.819.88.962.4124.7
5567.638.21.620.51575.3111.4
56
5780.747.11.723.120.60.292.7114.9
5876.253.41.521.118.994.9124.5
5976.455.21.621.98.80.26.093.7122.6
6072.751.61.521.24.90.37.286.7119.3
6181.054.81.524.17.52.53.393.7115.7

(北本市資料より作成)

北本の場合、減反目標面積ニ十ニ.四ヘクタールに対し、実施面積が二十四ヘクタール、したがって逹成率は一〇七パーセントであった。減反受け入れ水田の内訳をみると、野菜転作四.七へクタ—ルを中心に作付転換田が七.八ヘクタール、休耕田が十六ヘクタールであった。休耕という形の受入れが七十パーセント強を占めていたことは、北本を含む北部台地農村では、一部の労働力不足による荒し作りの水田が、減反政策に便乗して補助金を得ていたことを暗示している。第二期として昭和五十一年度から五十二年度にかけて「水田総合利用対策事業」が実施された。この段階の特徴は、米の減反とともに食用農産物の自給率向上を目指して、水陸田の有効利用が打ち出されたことである。しかし、実施面積は全国で約二十万ヘクタールと比較的小規模であった。北本では飼料作物など助成率の高い奨励作物への転作がめだったが、肥培(ひばい)管理を十分に行い収益をあげようという姿勢より、休耕措置が認められなくなった結果としての荒し作り、捨て作り型の転作も少なくなかったようである。受入れ面積は前期の二十四へクタールとほぼ同面積であった。
第三期は、昭和五十年度からおおむね十年間の長期的事業として実施された「水田利用再編対策事業」である。この事業は五十五年度・五十八年度・最終計画年度の三期に区分され、その狙いは、前段階の基本方針である特定作物の自給力の向上と米の生産調整を継承している。全国の目標面積も六十~七十万ヘクタールに達する大規模なものであった。

写真50 減反政策で耕作放棄された荒川河川敷の陸田

平成3年 高尾

こうした状況を反映して、北本の割当面積も初年度の昭和五十三年度が五十ヘクタール、以後、次第に増大し平均割当面積が七十~八十ヘクタール、達成率では一一〇~一ニ〇パーセント、同達成面積は昭和五十一年度を基準とした場合、市域水陸田の三十~四十パーセントに迫る勢いを示していた。五十三年度の生産調整割当率は水田七パーセン卜、陸田十三パーセント、官有地水陸田十五パーセントとなり、荒川河川敷や台地に官有地を含む広い陸田の分布がみられる北本では、谷津田に比べると転作条件に恵まれていただけに生産調整策の恰好(かっこう)の標的だったわけである。水田利用再編対策事業における平均的転作状況は、一期の査定で十アール当たり五万円(二期査定で四.二万円に減額)と補助額の高かった麦や飼料作物が過半数を占め、次いで補助額三.五万円(二期査定で二.二万円に減額)の野菜を中心にした一般作物が二十パーセントを占め、以下農協等への管理預託(よたく)田、五十九年度から始まった他用途米生産、永年性作物の順となる。
いずれにせよ、北本の場合は台地畑作農村の色彩が強かった。このため水陸田もかなりの部分が飯米自給的性格をもち、食管制度の維持を建前とする減反政策に一部の農家は必ずしも従わず、また、家計へのダメージも水田単作農村に比較すれば弱いものであった。ちなみに昭和五十九年度の北本市域の転作未達成地区は九農業集落一〇四戸に及び、十七パーセン卜のペナルティをかけられているが、それでも農家の対応は変らなかった。おまけに北本の農家ではすでに農外収入の家計寄与率が高まっていたこともあって、一層米生産調整策の影響は小さく済んできたようである。
なお、米の減反政策が北本の東西両地区の農業の性格に与えた影響は、西(石戸)地区で麦、飼料作物への転換が一貫してめだつほかは、果樹、大豆などの特定作物ないしは成長部門の野菜、花卉(かき)の作付けが年によってそれぞれが入れかわり、地域的特化傾向はとくに生じなかったようである。

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