北本市史 通史編 現代

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第2章 都市化から安定成長へ

第7節 学校教育の発展と進む社会教育

3 社会教育の進展

文化センターの誕生
北本では総合的な文化施設の建設が遅れていたが、昭和五十三年に策定された”北本市総合振興計画”の中で「全市的な利用を図る市民会館等の建設を促進する」ことが位置づけられていた。翌五十四年に設置された建設委員会では、早くも建設構想プランが練られた。文化施設の建設は市民からの要望も大変強く、市民としては一年でも早い完成を待ち望んでおり、市側としても、コミュニティ活動の推進、社会教育の充実、福祉の向上のためには不可欠と考え、振興計画に基づいて建設を決定したのである。振興計画の中に「地域的な要請を考慮しながらも今後はシンボルゾーンの形成と合わせて、市民会館等全市的コミュニティ施設を中心街に集積し、公共施設機能の効果をあげる」とあることから、建設場所は、北本中学校と市役所にはさまれている現在地に決定された。

写真73 文化センターと桜並木

昭和63年 本町(中央公民館提供)

当時は北本中の校庭の南端は松林であり、今も文化センターの周囲にその面影が残されている。施設内容については、市民の声が強かった、公民館、図書館、市民会館、ブラネタリウムを含む複合の施設とされた。
建設資金は積み立て金をべースに、補助金と起債(きさい)であてることにしていた。しかし、この時期は国の行政改革、財政改革が叫ばれている時であり、財政再建による補助金削減の波をかぶってしまうことになった。施設計画の中に市民会館が含まれていたが、管轄(かんかつ)の文化庁の方針として、市民会館建設の補助は人口一〇万人以上の都市に限られ、当時約五万三〇〇〇人の北本には市民会館建設の補助は認められないということであった。このため、計画の一部を変更することを余儀(よぎ)なくされることとなった。市民会館として構想していたものを公民館と変更し、ホールの座席数も当初計画から三三〇席少ない七五〇席に減少することになった。
昭和五十七年六月に着工され、総工費約ニニ億円をかけた工事は五十九年四月に完成し、公民館、ホール、図書館、プラネタリウムを含む多目的複合施設として北本市文化センターが開館されることとなった。公民館にプラネタリウムが備わったのは県内初めてであった。また、外壁は北本の象徴である”石戸の蒲桜”にちなみ、薄紫色(うすむらさきいろ)で統一されたが、当時、「文化施設としては色彩が派手ではないか」に代表される批判意見も出され、市側との間に色彩論争も交された。
文化センターは近隣にはない大規模なものであり、市内の行事だけでなく、県の行事、クラシックコンサート、演劇、自主的活動など多方面に利用され、県中央地域の中心的文化施設としてますます重要な役割を担っている。

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