北本市史 資料編 古代・中世

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はじめに
このたび、北本市史資料編第三巻下の刊行に際し、これに収載された古代・中世資料編の編集にあたって、執筆者全員で確認した全体の編集方針と、それらと密接にかかわる幾つかの点を述べて、本書利用の参考に供したいと思います。
北本市史の編さん基本方針については、市史編さん委員会によって示された大綱があり、本書もそれに基づいて編集したものでありますことは、申すまでもありません。従って、北本の歴史を従前の郷土史観に基づく把握ではなく、現在の日本史研究の水準を踏まえて、それと北本の古代・中世史との有機的関連に着目しながら、幅広く巨視的に捉えることにしました。この場合、まず留意したことは、北本市史の歴史学における普遍性と特殊性=個性をどのように捉え、描き出すかという点でした。そこで具体的には北本市史を、中央史の部分史、或いは一地域史という従属の立場に立つものとして捉えるのではなく、北本市民の側から自らの歴史として主体的に受け止め、市域とその周辺に展開した固有の歴史を明らかにするとともに、一方においてそれらを日本史の流れに位置づけるように努めました。そのため、北本とその周辺の地域に主な活躍の舞台を求め、さまざまな生産活動や支配関係、文化的諸活動を営んだ先人たちの意図、個性豊かな活躍の姿を可能な限り具体的に捉えることを目ざしました。このため北本市史は、現在の中央史の問題意識に従う研究や、そのテーマの地域的検証の場とするものではなく、市民の興味や関心に基づく歴史的課題を積極的に取り上げることに重点を置きました。しかしながら現実には、現在我々が手にし得る古代・中世史料の偏在と点在は如何ともしがたい状況にあり、よしんば史料があったとしてもそのほとんどは権力側によって出されており、民衆側の史料はほとんど見られないので、権力側の立場で記述されています。そのためいきおい史料の記述に沿って権力側の動向を追う記述にならざるを得ませんでしたが、編集中いつも念頭にあったのは、その対極に位する地域民衆の動向を明らかにしたいという熱い思いでありました。
さらに留意した点は、本書に収載された史料の理解を通して、市民の皆様が現在当面している多様な地域的課題の解決に、本書が些かでも役に立ちうるものであってほしいという願いでした。表面的には平和な生活と経済繁栄を謳歌している現在の私達の生活の背後には、ソ連や東欧を中心として激しく展開進行している社会主義の敗退という政治的・経済的変革のなかで、かつて世界史のなかで厳然として存在していた超大国の対立という二極構造が崩壊しつつあるという現実です。
こうした状況下において今後世界がどのような展開をしていくのかという漠然とした不安が私達を覆っています。このような不安から逃れ、自己確認の場を得たいとして多数の人々が歴史への関心を深めているのも事実であります。本書がそうした要求に答えうる一助になれば幸いと思う次第です。
第二は、古代・中世における北本市史が、同期の北本とその周辺地域を舞台として展開された地域民衆の生活の営みを明らかにすることを目的としましたことは前に述べたとおりですので、本書に収載した資史料は、いきおいその舞台となった市域及びその周辺の地理的条件に規定されることは申すまでもありません。
市域は、律令制下の国郡制では武蔵国足立群に属し、地形的には関東造盆地運動により形成された大宮台地の北端と、市域の東西に流れる荒川(旧入間川)及び赤堀川流域の低地から成っていました。この地に人々の生活が開始されたのは、この両河川沿いの地に縄文期から弥生・古墳・平安期に至る遺跡群を分布させているので、かなり早くから連続的に行われていたことが確認できます。しかし、文献上からは、当地の古代の人々のくらしの営みの全体を示す記述は残念ながら確認できません。やがて古代末期から中世にかけては、洪積台地にのちに中山道に転用された上州への道や鎌倉街道が発達し、また水利の便もよかったことから在地領主の成長がみられ、足立氏や石戸氏、荒川対岸の吉見氏の活躍が史料に散見されます。大宮台地の最頂部にある石戸宿では開発と軍事の両面から堀ノ内館などの設置がみられ、室町・戦国期には岩付城と松山城を結ぶ荒川渡河点を扼する要地として石戸城が築かれ、岩付太田・上杉・後北条氏の角逐の場となっています。また、荒川・赤堀川の流れは、農業用水や生活用水の供給によって人々の生活を安定化させ、時代は下りますが、今でも台地西部の畑地に広く確認できる荒川堆積土による客土のヤドロに、この地の農民の河川の恵みに依存した孜々たる努力の営為を見ることができます、当時の農民も時には河川から鋭い牙を向けられることもありましたが、平素は川に依存し、川と共生していたといえましょう。こうした点から本書では在地土豪とそれらに影響を及ぼした支配勢力の動向や、開発関係史料の収録に重点を置きました。
第三に、史料掲載の基準については、以下に述べるとおりであります。一般にどの市町村史についても言えることですが、時代を遡るほど関連史料が乏しくなるのが実状です。この傾向は北本についても同様です。とりわけ古代においては武蔵国が古代国家の辺境に位置し、政治の中心地の畿内から遠く離れていたこと、また、その地で権力集中していた一握りの上級貴族層が政権を担当し、その利害に武蔵国が大きな影響を与えたことが少なかったことなどが、深く関係したものと思われます。従って政治の中心が鎌倉に移り、その政権に坂東武士が関与した中世以降になると、関連史料が比較的豊かになるのはその証左と言えましょう。しかしながら市域に限ってみますと、直接関連する史料は古代・中世を問わずそれほど多くはなく、その偏在と点在は前にも触れたとおりです。従って史料が存在しない歴史の空白部分を埋め、かつ全体的な市史の変遷を理解していただく立場から、凡例でも示しましたように、古代では北本に影響を及ぼしたと思われる坂東や武蔵国関係史料を初めとして、中世では、北本が属した武蔵国の足立郡や隣接する比企・埼玉郡の一部地域からも関係史料を選択収集しました。それと時代を降るに従い対象地域を狭めていくなど、必ずしも現在の行政区域にこだわりませんでした。但し、単に地理的境域を重視するという形式的機械的収集ではなく、それぞれの時代における歴史の展開と民衆の動向に密接に関わるものを取り上げることにしたのは言うまでもありません。
第四の留意点は、平易で市民に親しまれる史料編の編集に努めたことです。こうした試みはいずれの市史でも程度の差はあれ、努力・工夫のあとがみられますが、言うは易く行うは難しというのが実状です。古代・中世史料は通常漢文体で読解が難しく、かつ用語も馴染みにくく、社会的背景を理解していないと解釈が困難です。そこで本書ではできるだけ皆様に親しんでいただけるように、掲載史料の内容を要約した綱文を付け、それを読んだだけでも史料のおおよその内容や、位置づけが把握できるようにしました。次いで原史料を読み下し、史料の性格を現定する出典の解説を施し、さらに難解歴史用語、関係人物名・地名について注を付けました。頻出用語については煩雑さを避けるために間隔をおいて再掲してあります。最後に時代背景を含めて内容の解説を施し、利用者の理解を容易にするように努めました。また関連項目や史料がある場合は解説のなかで史料番号を示し互いの関係を考えていただくよすがとなるようにしておきました。読み下し文や解説は、北本地域に主眼を置き、長文の読み下し文については関係の薄い部分を省略したものもあります。あくまでも北本市の歴史の理解を優先させてあります。
本書は北本市史に関する古代・中世関係史料を四章構成とし、第一章は古代の文献史料を、第二章に中世の文献史料、第三章は城館跡・金石資料・仏像、第四章は参考資料として市域に属する記録・系図類を収めました。以上によって北本に関わる主な古代・中世関係史料はほぼ網羅されたと思っております。主なものは申すまでもなく第一・二章の文献史料についてでありまして、その収集範囲や問題点については、「刊行にあたって」や「凡例」に詳しく述べてありますのでここでは繰り返しません。
但し第二章につきましては、時代区分を考慮し、鎌倉期、南北朝・室町期、戦国期の三節構成といたしました。各期の市域に関わる文書については、口絵写真で原文書を紹介し現物確認の手だてとしました。収載史料件数は一七一件、延二五六点となっており、豊かな史料群で構成しています。
収載にあたって特に重視した点としましては、在地領主の足立・吉見氏関係史料、石戸城と支配領主岩付太田氏の動向、石戸に見られた修験史料、大島・深井氏等の
在地給人層の史料、及び開発関係や小田原北条氏の領国経営史料が挙げられます。これらの史料の時代を通した位置づけ、ないし概観については本文に詳しい解説を施してあり、重複することとなるので本文解説に譲ることとし、ここでは割愛することにいたしました。
第三章は、市域に残されております城館跡と金石資料、文化財である仏像を対象といたしました。
城館跡は、中世初頭成立と目される堀の内館跡と室町・戦国期築城と伝える石戸城など七か所の遺構を収載しました。なかには近世初頭の陣屋と思われるものもありますが、陣屋趾の多くが中世遺構を継承し、かつ陣屋支配は寛永年間(一六二四—四四)に終焉しますので、一応本書に一括して収録いたしました。本市の代表的な城館跡であります堀ノ内館跡と石戸城跡は、市民の他に誇り得る史跡として厚い関心を集めているものであります。文献史料として残されているものは少ないが、土地に刻まれた歴史として今に生命を長らえ、また歴代の市民の心の中に、堀ノ内館跡については鎌倉御家人石戸氏、或いは悲劇の源家一門の源範頼に関わる伝承を併せ伝え、また石戸城は、戦国期争乱の舞台として生き生きと語り伝えられております。これらについては、土地に残された遺構の客観的把握のために、各城館跡の位置図、周辺図、復原図、古絵図、発掘遺構、航空写真、遺構断面図、関係文献等から、今日我々が手にし得る資料を収集、整理し、紹介しました。これらの諸資料を参考にして今後市民の方々の新たなる調査を期待するものであります。
金石文については、板碑と若干の宝篋印塔・五輪塔について収録しました。板碑につきましては、すでに江戸時代の地誌に記録され残されている有名な東光寺の鎌倉期の板碑群がありますが、これらを含め昭和五十四年三月に『北本の板碑』(北本市文化財調査報告書第九集)として刊行されておりました。今回はこれを基礎としてさらに基数や銘文ともに補正を加えたものであります。これに既刊の関係文献目録を加え、代表的板碑について一基毎に拓図、計測値、種子・偈・紀年銘号とを記し、冒頭に解説を施し、北本の板碑総覧となっています。宝篋印塔・五輪塔についても同様であります。
仏像についても、昭和五十一年に刊行された『北本の仏像』(北本市文化財調査報告書第七集)をもとにして、再度資料確認を実施したものであります。仏像は移動性が高いため将来仏であったのか、或いは願主の求めによる地方仏師の作例かは明確にしがたいのですが、中世資料としてはともに注目すべきものあでります。今回の調査で、一応中世の作例と考えられるもの八軀を対象としています。その分布は、中世資料の多い台地西部の石戸、北部の深井・高尾地区に集中しているのは注目すべきことですし、また修験の活躍との関係も見過ごせないことと考えられます。
第四章は、市内に伝わる記録・系図類、及び関係の深い足立氏や範頼の後裔と伝えられる吉見氏系図等を参考までに収載しました。系図には一定の史料限界がありますので、全幅の信頼は置きがたいのですが、由緒ある家の伝承資料として、他の資料と関連させながら検討し、史料的生命を吹きこむことが肝要と思われますので、参考として収録しておきました。
以上、編集にあたって留意した幾つかの点について概略述べてみました。不備・脱漏も多々あるやと思われますが、それは今後の編集作業のなかで可能なかぎり補完していきたいと思います。

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