北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

昌泰二年(八九九)九月十九日
僦馬の党による被害を防ぐため、相模国足柄・上野国碓氷に関が置かれ、公験が勘過される。またこの頃、武蔵国などに強盗が蜂起し、群盗鎮定のため諸社に奉幣される。

28 類聚三代格 〔新訂増補国史大系]
太政官符(1)
 応相模国足柄坂・上野国碓氷坂置関勘過事
右、得上野国解(2)偁、此国頃年強盗鋒起、侵害尤甚、静尋由緒、皆出僦馬之党也、何者、坂東諸国富豪(3)之輩、啻以駄運物、其駄之所出皆縁掠奪、盗山道(4)之駄以就海道(5)、掠海道之馬以赴山道、爰依一疋之駕(6)害百姓之命、遂結群党、既成凶賊、因玆、当国隣国共以追討、解散之類赴件等堺、仍碓氷坂本権置追邏、令加勘過、兼移送相模国既畢、然而非蒙官符、難可拠行、望請、官裁、件両箇処特置関門、詳勘公験(7)、慥加勘過者、左大臣宣(藤原時平)、奉勅、宜依件令置、唯詳拘奸類勿妨行旅
   昌泰二年九月十九日
 
29 扶桑略記(8) 〔新訂増補国史大系〕
(昌泰四年)
二月十五日戊辰、奉幣諸社、自去寛平七年、坂東群盗発向、其内信乃・上野・甲斐・武蔵、尤有其害、御祈也
〔読み下し〕
28太政官符す
 応(まさ)に相模国足柄坂・上野国碓氷坂に関を置き勘過すべきの事
 右、上野国の解(げ)を得るに偁(いわ)く、この国頃年(このごろ)強盗鋒(蜂)起し、侵害尤も甚(はなはだ)し、静かに由緒を尋ぬるに、皆僦馬(しゅうま)の党に出ずるなり、何となれば、坂東諸国の富豪の輩、啻(ただ)に駄をもって物を運ぶのみ、その駄の出ずる所皆掠奪に縁る、山道の駄を盗みもって海道に就け、海道の馬を掠(かす)めもって山道に赴かす、爰(ここ)に一疋の駑に依り百姓の命を害(そこな)い、遂に群盗を結び既に凶賊と成る、玆(ここ)に因(よ)りて、当国隣国共にもって追討し、解散の類は件等の堺に赴けり、仍って碓氷・坂本に権(かり)に遉邏を置き、勘過を加えしめ、兼ねて相模国に移送すること既に畢んぬ、然れども官符を蒙むるに非ずんば、拠り行うべきこと難し、望み請うらくは、官裁して件の両箇処に特加関門を置き、詳(つまび)らかに公験(くげん)を勘(かんが)え、慥(たしか)かに勘過をにえんことを者(てえれば)、左大臣宣すらく、勅を奉(うけたまわ)るに、宜(よろ)しく件(くだん)に依りて置かしむべし、唯詳らかに奸類を拘(とら)え行旅を妨ぐること勿(なか)れ
29二月十五日戊辰、諸社に奉幣す、去る寛平七年より坂東の群盗発向す、其(そ)の内信乃(濃)・上野・甲斐・武蔵、尤(もっと)も其の害あり、御祈りなり
〔注〕
(1)太政官から八省、または諸国に下した文書をいう。略して官符ともいう。
(2)八省以下、内外の諸司から太政官もしくは上級官庁に奉る公文書をいう。
(3)奈良末〜平安初期にかけて農村で律令制を解体させ、荘園制へ移行させた土豪・豪族層
(4)東山道
(5)東海道
(6)馬の意
(7)官府から下付された証明書
(8)ふそうりゃっき 平安末期に成立した神武天皇から堀河天皇までを記述した通史。三〇巻、延暦寺功徳院の学僧で法然の師でもあった皇円の著。漢文で六国史などの史書や僧伝・諸寺の記事を抄録して編年体にまとめ、内容は仏教関係の記事が多く、必ずしも全面的に信頼できないが出典が明示されており貴重である。
〔解 説〕
律令体制の動揺が深刻化する九世紀後半は、中央に於ては北家藤原氏が他氏を排斥(承和の変(八四二年)・応天門の変(八六六年))して権力の掌握に成功し、摂関政治が展開していったが、地方では受領の徴税請負人化と共に治安が悪化した。特に東国は群盗が蜂起し大きな混乱を生じていた。
この太政官符は、太政官が解の内容を検討し、その答として上野国に出した符である。近年群盗が蜂起し治安が悪化しているので、足柄坂と碓氷坂に関所を置き群盗の取り締りを強化することを命じたものである。この群盗は、僦馬の党(物資の輸送を仕事とする)から出ており、坂東諸国の富豪之輩が中心的役割を果たしていた。扱う物資や馬は、東山道と東海道を股にかけて荒し回り奪ったもので、一頭の馬を得るために百姓の命をとり、ついに群盗を結成し凶賊となっていると上野国は訴えている。この訴えに武蔵国は登場しないが、地理的にも相模国(足柄坂)と上野国(碓氷坂)に挟まれていることを考えれば、僦馬の党の動きと深く関係していたことは明らかである。これに先立つ貞観三年(八六一)には、各郡毎に検非違使を設置したぼど武蔵国の治安は悪化していた。一時的には検非違使の設置が効力を発揮したかもしれないが、約四十年後にこのような宜符が出された事を考えると、群盗に対してもはや有効な手段を持ち得なかった。これに対して政府は史料29に見られる如く何らの対策を講ずる方途もなく、寛平七年以来蜂起の群盗に対し、延喜元年(九〇一)諸社に奉幣して騒乱の鎮定を祈ったが、尤もその害のあったのは東山道から武蔵にかけての地域であった。かような反律令的行為は土豪や有力農民層に止まらず国衙それ自身にも内包され、隣国上野では延喜十五年(九一五)二月、介藤原厚載が上毛野基宗らの農民に殺害され、翌月武蔵国で下手人三人が捕縛されている(日本紀略)。このような動きの延長線上に後掲の武蔵権介源任(嵯峨源氏)が国府に干渉する事件(延喜十九年(九一九)史料30・31)や、源任の子宛が平良文と争った土豪同士の抗争事件(史料32)が起こるのである。

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