北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

承平八年(九三八)二月
武蔵権守興世王・介源経基が、足立郡司武蔵武芝と争い武芝の舎宅を押領する。この紛争に平将門が介入する。

35 将門(1)記 〔日本思想大系〕
然間以去承平八年春二月中、武蔵守(權脱カ)興世王(2)・介源経基(3)、与足立郡司判官代武蔵武芝(4)、共各争不治之由、如聞、国司者无道為宗、郡司者正理為力、其由何者、縦郡司武芝、年来恪懂公務、有誉无謗、苟武芝治郡之名頗聴国内、撫育之方普在民家
代々国宰、不求郡中之欠負、往々刺吏(史)、更无違期之譴責、而件権守、正任未到之間、推擬入部者、武芝検案内、此国為承前之例、正任以前、輙不入部之色者、国司偏称郡司之无礼、恣発兵仗、押而入部矣、武芝為恐公事、暫匿山野、如案、襲来武芝之所々舎宅縁辺之民家、掃底搜取、所遣之舎宅検封棄去也
凡見件守介行事、主則挟仲和之行(花陽国志曰、仲和者為太守、重賦貧財、漁国内之也) 従則懐草窃之心、如箸之主、合眼、而成破骨出膏之計、如蟻之従、分手、而励盗財隠運之思、粗見国内彫弊、平民可損、仍国書生等、尋越後国之風、新造不治悔過一巻、落於庁前、事皆分明於此国郡也
武芝已雖帯郡司之職、本自無公損之聆、所被虜掠之私物、可返請之由、屢令覧挙、而会无弁糺之政、頻致合戦之構、于時将門(5)、急聞此由、告従類云、彼武芝等、非我近親之中、又彼守介非我兄弟之胤、然而為鎮彼此之乱、欲向相武蔵国者、即率自分之兵杖、就武芝当野
武芝申云、件権守幷介等、一向整兵革、皆率妻子、登於比企郡狭服山者、将門・武芝相共、指府発向、于時権守興世王、先立而出於府衙、介経基未離山陰、将門且興世王与武芝、令和此事之間、各傾数杯、迭披栄花
而間武芝之後陣等、无故而囲彼経基之営所、介経基未練兵道、驚愕分散云、忽聞於府下、于時将門、鎮濫悪之本意、既以相違、興世王留於国衙、将門等帰於本郷、爰経基所懐者、権守(与脱カ)将門、被催郡司武芝、抱擬誅経基之疑、即乍含深恨、遁上京都、仍為報興世王・将門等之会嵇、巧虚言於心中、奏謀叛之由於太(政脱カ)官、因之京中大驚、城邑併囂
〔読み下し〕
35 然る間、去る承平八年春二月中をもって、武蔵権守興世王(おきよおう)・介源経基(みなもとのつねもと)と、足立郡司判官代武蔵武芝(むさしのたけしば)と、共に各(おのおの) 不治の由を争う、聞くがごとくんば、国司は無道(ぶどう)を宗(むね)と為し、郡司は正理(しょうり)を力と為す、その由何とならば、たとえば郡司武芝、年来公務に恪憧(かくこん)して、誉(ほまれ)ありて謗(そしり)なし、苟(いやし)くも武芝、治郡の名頗(すこぶ)る国内に聴こえ、撫育(ぶいく)の方(みち)普(あまね)く民家にあり
代々の国宰(こくさい)は、郡中の欠負(けつぷ)を求めず、往々の刺吏(史)(しし)は、更に違期の譴責(けんせき)なし、而(しか)るに件(くだん)の権守、正任(しょうにん)致らざるの間、推して入部せんと擬者(すてえり)、武芝、案内を検するに、この国承前(しょうぜん)の例として、正任より以前に、輙(たやす)く入部するの色(しき)あらず者(てえり)、国司偏(ひとえ)に郡司の無礼を称して、恣(ほしいまま)に兵仗(ひょうじょう)を発し、押して入部す、武芝、公事(くじ)を恐るるがために、暫く山野に匿(かく)る、案のごとく、武芝が所々の舎宅・縁辺の民家に襲い来りて、底を掃(はら)いて捜し取り、遺(のこ)るところの舎宅は検封(けんぷう)して棄(す)て去りぬ
凡そ件の守・介の行えることを見るに、主は則ち仲和(ちゅうわ)の行(おこない)を 挟(わきはさ)む花陽国志(かようこくし)に日く、仲和は太守として、賦(ふ)を重くし財(たから)を貧(むさぼ)りて、国内に漁(すなど)るものなり、従は則ち草窃(そうせつ)の心を懐(いだ)けり、箸(はし)のごとくある主は、眼を合わせて、骨を破りて膏(あぶら)を出すの計(はかりごと)を成す、蟻(あり)のごとくある従は、手を分けて、財を盗み隠し運ぶの思いを励む、粗(あらあら)国内の彫(しぼ)み弊(つか)れたることを見るに、平民(へいみん)損うべし、よって国の書生(しょしょう)等(ら)越後国の風を尋ねて、新たに不治の悔過(けか)一巻を造りて、庁の前に落す、事は皆この国郡に分明なり
武芝、已(すで)に郡司の職を帯ぶといえども、本(もと)より公損(こうそん)の聆(きこえ)なし、虜掠(りょうやく)せられしところの私物、返し請うべきの由、屢(しばしば)覧挙(らんきょ)せしむ、而(しか)るに曽(かつ)て弁糺(べんきゅう)の政(まつりごと)なく、頻(しきり)に合戦の構(かまえ)を致す、時に将門は、急にこの由を聞きて、従類に告げて云わく、かの武芝等、我が近親の中に非ず、またかの守・介は我が兄弟の胤(たね)に非ず、然れども彼此(かれこれ)が乱を鎮めんがために、武蔵国に向い相(み)んと欲す者(てえり)、即ち自分の兵仗を率(そつ)して、武芝が当(あたり)の野に就(つ)く
武芝申して云わく、件の権守並びに介等、一向(いっこう)に兵革(ひょうかく)を整えて、皆妻子を率して、比企郡狭服山(ひきのこおりさやきのやま)に登る者(てえれ)ば、将門と武芝と相共に、府を指して発向す、時に権守興世王、先立ちて府衙(ふが)に出づ、介経基は山の陰を離れず、将門且(また)、興世王と武芝と、この事を和せしむるの間、各(おのおの)数杯を傾けて、迭(たがい)に栄花を披(ひら)く
而(しか)る間、武芝が後陣等、故なくしてかの経基が営所を囲む、介経基、いまだ兵(つわもの)の道に練(ね)れずして、驚き愕(さわ)いで分散すと云うこと、忽に府下に間ゆ、時に将門、濫悪(らんあく)を鎮むるの本意、すでにもて相違しぬ、興世王は国衙(こくが)に留まり、将門等は本郷に帰りぬ、ここに経基が懐(いだ)くところは、権守と将門とは、郡司武芝に催(もよお)されて、経基を誅(う)たんと擬(す)るかとの疑いを抱きて、乍(にわか)に深き恨(うらみ)を含みて、京都(みやこ)に遁れ上る、仍りて興世王・将門等が会稽(かいけい)を報いんがために、虚言(そらごと)を心中に巧(かま)えて、謀叛(むほん)の由を太政官に奏す、これによりて京中大(おお)いに驚き、城邑(じょうゆう)併(しかし)ら嚣(かまびす)し
〔注〕
(1)「まさかどき」とも読む。平将門が承平・天慶年間に起こした一族の内紛と国家に対する叛乱の経過を記述した戦記物語。成立は天慶三年頃。作者不詳であるが、将門に近い立場に立つ都の文人的教養を備えた僧侶、もしくは文人によって記述された可能性が高い。修辞の豊富な漢文体で表現されており、平将門の乱の根本史料となっている。
(2)おきよおう 系譜不詳
(3)(~九六一)清和源氏の祖、清和天皇の第六皇子貞純親王の嫡男で六孫王と称す。承平年間(九三一~八)には武蔵介として下向していた。
(4)「西角井家系図」によると武蔵国造武蔵宿禰不破麻呂の子孫と見え、足立郡司で国衙の在庁官人をもつとめていた伝統的武蔵豪族。名郡司の誉れが高く、氷川神社を奉斎していた。
(5)(〜九四〇)平安中期の武将 鎮守府将軍平良将の子。相馬小次郎とも称し、下総国豊田庄を中心に大きな勢力をもっていた。平将門の乱を起こし坂東の地に一時独立政権を樹立したが、天慶三年藤原秀郷・平貞盛連合軍に敗れた。
〔解 説〕
承平五年(九三五)から天慶三年(九四〇)までの六年間にわたって展開し、関東全体を争乱に巻き込んだ平将門の乱は、当初は常陸・下総に勢力を張っていた坂東平氏一族やその姻戚の源護という大豪族間に起こった土地(将門やその父良将の遺領)をめぐる私闘的性格のものであった。しかし後に、足立郡司武蔵武芝と武蔵権守興世王・介源経基との粉争に将門が介入したことにより、朝廷に対する大規模な叛乱となり、将門自らが新皇と称して独立王国を樹立し、中央政府に敵対するようになった。武藏事件の発端は、承平八年(九三八)二月に権守興世王と介源経基が部内巡視を名目に足立郡内に無理に入部しようとしたのに対し、武蔵武芝がこれを拒否したことに始まる。これに対し興世王らは武芝の非礼を怒り、武芝の財物のみならず縁辺農民の租穀まで没収し、他は検封して引揚げた。武芝は私財の返還要求をする一方、従類を集めて合戦の準備をした。これを聞いた将門は、この紛争を調停しようとして介入してくるが、両者の和議が成立する直前、武芝の後陣が源経基の営所をとり囲むという不測の事態が起こったため和議は破談となり、将門の調停は失敗に終わった。将門の行動を疑った源経基は、京に戻って将門謀叛の旨を朝廷に報告したため、将門は朝敵として追討を受けることとなった。一方、権守興世王は正任の国守百済貞連と対立するようになり、やがて将門と結び、将門は興世王献策によって坂東諸国全体を捲き込む叛乱に突入していった。将門は常陸・上野・下野の国府を襲い国家権力の象徴である印鑰(国印と正倉の鍵)を奪い、次いで自ら新皇と称して関東に新政府の樹立を図った。しかし、天慶三年(九四〇)、将門は下野国押領使藤原秀郷や同族の平貞盛の追討を受けて敗死し、六年間にわたる争乱は鎮定された。

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