北本市史 資料編 古代・中世

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第1章 古代の武蔵と北本周辺

長元三年(一〇三〇)九月二日
甲斐守源頼信や坂東諸国の国司に、平忠常の追討が命ぜられる。

36 日本紀略 〔新訂増補国史大系〕
(長元元年六月)
廿一日甲申、右大臣(1)以下著仗座、定申下総国住人前上総介平忠常(2)等事、即遣検非違使右衛門少尉平直方、少志中原成道(通カ)等、征討之、給官符等於東海・東山道
 
37 日本紀略 〔新訂増補国史大系〕
(長元三年九月)
二日壬子、仰甲斐守源頼信(3)、幷坂東諸国司等、可追討平忠常之状、依右衛門尉平直方無勲功召還之
 
38 小右記(4) 〔大日本古記録〕
(長元四月)
(前略)国依追討忠常之事亡弊殊甚(中略)抑安下総已亡国也、被加公力、令期興復尤佳
 
39 日本紀略 〔新訂増補国史大系〕
(長元四年六月)
十六日壬辰、頼信朝臣梟平忠常首入京、件忠常受病死去
〔読み下し〕
36二十一日甲申、右大臣(実資)以下仗座に着し、下総国の住人前上総介平忠常等の事を定め申す、即ち検非違使右衛門少尉平直方・少志中原成道等を遣わし、これを征討す、官符を東海・東山道に給う
37二日壬子、甲斐守源頼信、并びに坂東諸国司等に、平忠常を追討すべきの状を仰す、右衛門尉平直方、勲功無きに依りて、これを召還す
38(下総か)国忠常追討の事に依り亡弊殊に甚だしと(中略)安(房上総カ)下総已に亡国なり、公力を加えられ、興復を期せしめば尤も佳なり
39十六日壬辰、頼信朝臣、平忠常の首を梟し京に入る、件の忠常は病を受けて死去す
〔注〕
(1)藤原実資(九五七~一〇四六)
(2)忠恒とも書く (九六七~一〇三一)。平安中期の武将 鎮守府将軍平良文の孫。父祖以来坂東に勢威を振い、上総介・武蔵押領使・下総権介等を歴任し、上総・下総地方に大きな勢力を形成した。
(3)平安時代中期の武将 源満仲の子 河内源氏の祖となる。左馬権頭や常陸など各国の守を歷任し、鎮守府将軍となるなど東国とも関係が深い。藤原道長に仕え源氏勢力を拡大する。
(4)しょうゆうき、おうきとも読む。「野府記」「小記」「小右相記」「続水心記」ともいう。巻数不詳。藤原実資の日記で、藤原道長・頼通時代の政治社会の状態を知る重要史料、道長らに対する批判の筆がある。
〔解 説〕
前上総介平忠常は房総・武蔵地方に大きな勢力を振い、万寿四年(一〇二七)頃から坂東の受領を圧迫して、近隣諸国から恐れられていた。長元元年(一〇二八)上総国衙を攻撃し、安房国を襲い国守を焼殺して平忠常の乱が起った。朝廷では、始め前伊勢守源頼信を追討使にと考えたが、結局は検非違使平直方と中原成道が任命された(史料36)。しかし、追討使は、忠常を追討することはできず、中原成道は追討について言上もせず解官される有様であった。長元三年(一〇三〇)九月朝廷は直方をも罷免し召還してしまう。
代わって源頼信が甲斐守に任じ、追討使に任命して坂東地域の国司も追討に協力させた(史料37)。長元四年四月、頼信が任国に赴き忠常との合戦を準備していたところ、忠常が子二人と郎等三人を率いて頼信に投降した。六月、頼信は忠常を伴って上京する途中、美濃国厚見(渥美)郡野上で忠常が病死したため、忠常の首を枭して入京した(史料39)。
この乱は、平将門の乱後、約一世紀を経た時に起った坂東の大乱で、忠常は三年間にわたり房総地方で私的権力を維持し、貴族政権の無能ぶりを明瞭にさせた。またこの乱のために坂東地域、とりわけ房総地域のうけた打撃は大きく、「亡国」の状態であったという(史料38))。

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