北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第1章 古代の武蔵と北本周辺

永久元年(一一一三)三月四日
武蔵・下総など五か国の国司に命じて、横山党を追討させる。また、同四月十二日、左大臣源俊房が追討後の処置を非難する。

41 長秋記(1) 〔内閣文庫蔵〕
(永久元年三月)
四日、横山党(2)依殺害内記太郎(3)、被下追罰(討カ)宣旨、左府(4)仰云、頭弁(5)来仰、横山党廿余人、常陸・相模・上野・下総・上総五ケ国司、可追討進之由、可宣下者、直雖下同弁、彼弁猶示可下大弁之由、依事道理左(召カ)右大弁(6)下之、如此凶事必所下右弁官也
 
42 長秋記 〔内閣文庫蔵〕
(永久元年四月)
十二日(中略)左府仰云、坂東横山党可追討之由宣下、而追捕後不申上子細、列検非違使請取條、尤不似先例事也者
〔読み下し〕
41四日、横山党、内記太郎を殺害するに依り、追罰(討)宣旨を下さる、左府仰せて云わく、頭弁来りて仰す、横山党廿余人、常陸・相模・上野・下総・上総の五か国司に、追討し進ずべきの由宣下すべしてえれば、直ちに同弁に下すといえども、彼の弁、猶大弁に下すべきの由を示す、事の道理に依り、右大弁を左(召)してこれに下す、かくのごとき凶事は必ず右弁官に下す所なり
42十二日(中路)左府仰せて云わく、坂東の横山党を追討すべきの由宣下す、而(しか)るに追捕の後子細を申し上げず、検非違使に列し請け取るの条、尤(もっと)も先例に似ざる事なり者(てえり)
〔注〕
(1)院政期の公卿源師時の日記。皇后宮の唐名を「長秋宮」といい、師時が長く皇后宮権大夫を勤めたことから、この名称がつけられた。別名「水日記」「権大夫記」「師時記」ともいう。寛治元年(一〇八七)から保延二年(一一三六)の間の日記であるが欠も多い。役柄上政務朝儀や宮廷の機微に触れ、院政期の重要史料である。
(2)武蔵七党のー、系図によれば小野篁の後裔で武蔵権介に任ぜられ下向した義隆から始まるという。多摩郡横山庄を本拠とし、横山氏を嫡流とする血縁の在地領主層の同族連合体
(3)愛甲内記平大夫か
(4)源俊房
(5)藤原実行
(6)藤原長忠
〔解 説〕
史料41は、横山党(隆兼)が内記太郎を殺害したため、朝廷は宜旨を下し、下総国など五か国の国司に対して、横山党を追討するよう命じたもの。横山党はこの史料によると横山氏を嫡流とする二十数名の同族的在地傾主層の軍事的連合であったことがわかる。
なお、埼玉県内で横山党に属する氏族としては、県北部では成田・箱田・奈良・多賀谷・河上、県南部では矢古宇などの諸氏があげられる。
この追討に対し、横山党は强く抵抗し、宣旨御使を一七回も追い払った。そこで政府は秩父重綱ら坂東武士に命じて横山党を攻擊させ上洛させた。しかし源氏の家人であったため、源為義のとりなしで何の罰も下されなかったという。
史料42は、この後、四月十二日、左大臣源俊房が、横山党追討後の処置を、先例を無視したものだとして非難した史料である。

<< 前のページに戻る