北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第1章 古代の武蔵と北本周辺

久寿二年(一一五五)八月十六日
悪源太義平は、比企郡大蔵で伯父の前帯刀長源義賢と戦い敗死させる。

43 台記(1) 〔増補史料大成〕
(久寿二年八月二十七日)
或人口□□口源義賢(2)、為其兄下野守義朝之子、於武蔵見殺
 
44 平家物語  〔日本古典文学大系〕
彼義賢、去る仁平三年の夏のころ、上野国多胡郡に居住したりけるが、秩父次郎大夫重隆が養子に成て、武蔵国比企郡へ通ひける程に、当国にも不限、隣国迄もしたがひけり、かくて年月を経ける程に、久寿二年八月十六日故左馬頭義朝が一男悪源太義平が為に、大蔵の館(3)にて義賢・重隆共に誅せられにけり
 
45 百錬抄(4)  〔新訂増補国史大系〕
(久寿二年八月) (5)
廿九日、近日風聞云、去十六日、前帯刀長(5)源義賢与兄子源義平於武蔵国合戦
〔読み下し〕
43或人口□□口源義賢、その兄下野守義朝の子のために武蔵国にて殺さる
44
45二十九日、近日風聞に云わく 去んぬる十六日、前帯刀長源義賢、兄が子源義平と武蔵国に於いて合戦す
〔注〕
(1)「宇槐記」「槐記」「宇左記」「宇治左府記」「治相記」ともいう。一二巻一冊。保元の乱の立役者、左大臣藤原頼長の日記、保延二年(一一三六)から久寿二年(一一五五)の間が部分的に現存する。保元の乱までの政治動向を知る貴重な史料である。
(2)みなもとよしかた(~一一五五)義朝の弟、皇太弟体仁(なりひと)親王(後の近衛天皇)の帯刀先生を勤め、源備事件で失脚し上野国多胡庄に居住。仁平三年(一一五三)秩父重隆の養子になり比企郡大蔵館に住む。
(3)比企郡嵐山町大蔵の館
(4)百練抄とも書く。安和元年(九六八)から正元元年(一二五九)までの編年体の史書。もと二〇巻あったが首の三巻を欠き、一七巻が現存する。鎌倉時代の後宇多天皇在位(一二七四〜八七)のころ、宮廷の事情に詳しい公家の撰になるという。
(5)帯刀して東宮御所の整備に当たる者。指揮官を带刀先生といい、平安末には地方武士が任じられた。
〔解 説〕
久寿二年八月十六日、多胡先生源義賢が大蔵の館において、甥の源義平に襲擊され、敗死したという記事である。
この大蔵の戦いは、相模の鎌倉を本拠として相馬(下総)・大庭(相模)両御厨の領主権を奪い、坂東の武士を組織しつつあった源義朝と、上野国多胡郡多胡庄を本拠とし、武蔵国の有力豪族秩父重隆(秩父氏は、平良文の孫将常が武蔵権守となり秩父郡に本拠を置き秩父氏を称した)の女婿となリ、武蔵国比企郡に進出していた弟源義賢との戦いであった。これは、武蔵国の支配権をめぐる争いであると同時に、義朝・義賢兄弟による坂東武士の棟梁の地位をめぐる争いでもあった。実際には、義朝の子義平が義賢を倒したのであるが、義賢の敗死により、坂東における義朝の武家の棟梁としての地位が固まった。その後、保元・平治の両乱を通じて武蔵武士の多くは義朝に従うなど、古代末の武蔵武士の帰趨に大きな影響を与えた。両者の争いは、源平の争乱にまで尾を引き、義賢の子木曽義仲の入京と没落、義朝の子頼朝の鎌倉幕府創設というように、武家政権の樹立及び関東武士の支配に対する明暗を分けた。

<< 前のページに戻る