北本市史 資料編 古代・中世
第2章 中世の北本地域
第3節 後北条氏の支配と北本周辺
元亀三年(一五七二)正月九日北条氏政の代替りに当たり、宮城四郎兵衛尉・道祖土図書助らが軍役を改定される。
205 北条家印判状 〔豊島宮城文書〕
改定着到(1)之事
六拾五貫三百六十文 | 大間木(2) |
十三貫文 | 小淵之内中居(3) |
廿一貫七十文 | 川口(4) |
十五貫文 | 沼田(5)之内屋敷分 |
六拾貫文 | 舎人本村(6) |
弐十貫文 | 同所中之村 |
九十貫文 | 小机(7)之内菅生(8) |
此着到
三本 | 大小旗持、具足(9)・皮笠 |
一本 | 指物(10)持、同理 |
一張 | 歩弓侍、甲立物(11)・具足、指物しない(撓)地(12)くろニあかき日之丸一ッ |
二挺 | 歩鉄炮侍、同理 |
十七本 | 鎧、二間之中柄、具足・皮笠 |
七騎 | 馬上、具足・甲大立物・手蓋(13)、指物何にても |
一騎 | 自身、具足・甲大立物・手蓋・面肪(14)、馬鎧金(15) |
四人 | 歩者(16)、具足・皮笠・手蓋 |
右着到、分国中何も等申付候間、自今以後此書出之処、聊も不可有相違候、於違背者、越度者可為如法度者也、
壬申(17) (虎印「禄寿応穏」)
正月九日
宮城四郎兵衛尉(18)殿
正月九日
宮城四郎兵衛尉(18)殿
206 北条家印判状 〔道祖土文書〕
改定着到之事
廿五貫文 八林(19)之内屋敷分
此着到
一本 | 鎧、二間々中柄、具足・皮笠 |
一本 | 指物持 同理 |
一騎 | 馬上、具足・甲大立物・手蓋・面膀 |
右着到、分国中何も等申付候、自今以後此書出之処、聊も不可有相違候、於違背者、越度者可為如法度者也、仍如件
壬申 (虎印「禄寿応穏」)
正月九日
道祖土図書助(20)殿
正月九日
道祖土図書助(20)殿
〔読み下し〕
205 改め定む着到の事
(中略)
右着到、分国中いずれも等しく申し付け候間、自今以後この書き出し候処、いささかも相違あるべからず候、違背においては越度は、法度の如くたるべきものなり、よって件の如し
206 略
〔注〕
(1) | 着到とは、本来は戦闘に際し大将の軍勢催促に応じた武士が馳せ参じたことを上申する文書で、大将または奉行の証判を得て後日の恩賞獲得の証拠書類としたものである。後北条氏の場合はそれと違って、被官人の貫高とそれに応じた軍役人数・装備を規定していた。(佐脇栄智「後北条氏の軍役」『日本歴史』三九三号) |
(2) | 浦和市大牧 |
(3) | 小淵(おぶち)・中居(なかい)ともに鳩ケ谷市三ッ和あたり |
(4) | 川口市 |
(5) | 東京都足立区江北・扇 |
(6) | 東京都足立区舎人 |
(7) | 横浜市港北区小机町・烏山町一帯 |
(8) | 川崎市宮前区菅生 |
(9) | 甲胄のことであるが、ここではそのうち胴の部分のみを指しているようである。 |
(10) | 具足(甲冑)の胴の背に指した長柄の小旗。所属や任務、敵味方の別を示す。 |
(11) | 甲(かぶと)(兜)に付ける飾り |
(12) | 竹竿に付けた小旗、竹がしなうことから名付く |
(13) | 手を覆う武具 |
(14) | 面頰(めんぼお) 顔の防具、頰当て |
(15) | 馬の各部に着けた皮製防具に金箔を押したもの |
(16) | 戦場で主人の身の廻りの世話をする者 |
(17) | 元亀三年 |
(18) | 宮城泰業(やすなり) 宮城氏は豊島郡に根を張った豊島氏の一族で岩付太田氏に属した。泰業は太田氏房の重臣。天正十九年(一五九一)没 |
(19) | 比企郡川島町八林 |
(20) | 岩付衆の一人、実名不詳 道祖土氏は比企郡三保谷郷(川島町)を根拠とした土豪。享禄年間以前から資家・資頼・資時・資正・氏資と岩付太田氏歷代に従い永禄十年(一五六七)、岩付城主太田氏資の戦死後、三保谷・戸森両郷の代官職を後北条氏から安堵されている。 |
元亀三年(一五七二)十月二日に北条氏康は病没し、嫡子氏政が名実共に小田原本城主となった。同年中に氏政は後北条氏の関東支配に利益をもたらさない上杉謙信との越相同盟を破棄し、それまで敵対していた武田信玄と和を結んだ(甲相同盟)。このニ点の史料は氏康の死による後北条氏の実質的な代替りと、謙信と敵対しながら関東征圧を進めなけれ.はならないという新しい緊張事態に対して、後北条氏が配下の岩付衆の宮城・道祖土氏らの軍役を改定し、総人数とそれぞれの軍装に至るまでを詳細に規定した印判状である。このほか、埼玉郡百間領主鈴木雅楽助業俊にも、同文の改定書到状を発給しており、三氏はいずれも後北条氏が岩付城を支配する以前から岩付太田氏に臣従していた有力土豪であった。謙信との断絶は太田道誉父子の岩付帰還取決めも同時に反故になったことを意味するから、後北条氏としては岩付領支配に本腰を入れるとともに、同領の軍事力を強固なものに再編成する必要があったものと思われる。但し、着到の改定は「分国中」に申し付けたとあり、岩付領内に留まらなかったと思われるが、他に発給された形跡がなく、この改定は岩付領の軍備再編充実に力を入れていた結果と推量される。軍役は宮城氏が二八四貫四〇〇文に対して、自身馬上のほか馬上七騎、鑓持一七人、徒歩鉄炮侍二人、同弓侍一人、旗指物持四人、歩者四人の計三六人、道祖土氏が二五貫文に対して、自身馬上、鑓・指物持各一人で合計三人、鈴木氏は八貫二五〇文に対して自身馬上、鑓持一人で計二人と規定されている。宮城氏の軍役規模の大きさが目立つが、天正五年(一五七七)に定められた「岩付諸奉行」でも宮城泰業は馬上・陣庭・篝・小荷駄の四奉行を兼ねていて、岩付衆の中では重臣であったことが知られる(豊島・宮城文書は豊島区立郷土資料館刊中世豊島氏関係史料集(一)『豊島・宮城文書』に全点カラー写真で収録。また宮城氏の軍装については、藤本正行『戦国期武装要語解』に詳しい)。
なお、宮城氏の所領書立(史料205)のうち、「小淵之内中居」を埼玉郡小淵=春日部市小淵とする説があるが、それは、宮城氏の所領分布から見て無理があり、足立郡小淵・中居のことと思われる。