北本市史 資料編 古代・中世
第2章 中世の北本地域
第3節 後北条氏の支配と北本周辺
天正二年(一五七四)九月十日北条家は、小室閼伽井坊の寺領訴訟を裁定する。
212 北条家裁許印判状 〔明星院文書〕
内田新二郎(1)捧目安ニ付而、閼伽井坊(2)以相目安、遂糺明了、然而 小室閼伽井坊寺領之事、太田道也(3)証文明鏡也、他人之綺、一切不可有之、自今以後、横合非分有之者、以目安訴可申旨、依仰状如件
(禄寿応稳)
天正二年 甲戌 九月十日 評定衆
四郎左衛門尉
康定(4)(花押)
閼伽井坊
天正二年 甲戌 九月十日 評定衆
四郎左衛門尉
康定(4)(花押)
〔読み下し〕
212 内田新二郎目安を捧ぐに付いて、閼伽井坊(あかいぼう)相目安を以って、糾明(きゅうめい)を遂(と)げ了(おわ)んぬ、然して、小室の閼伽井坊寺領の事、太田道也の証文に明鏡なり、他人の綺(いろい)一切これあるべからず、自今以後、横合いより非分これあらば、目安を以って訴え申すべき旨、仰せに依って状件(くだん)の如し
〔注〕
(1) | 北条家臣で、小室周辺の土豪か、史料211に「内田孫四郎」が見える。 |
(2) | 史料180の注(3)参照 |
(3) | 太田氏資の法号 |
(4) | 山角左衛門尉康定 小田原評定衆の一 |
後北条氏の家臣と伝えられる内田新二郎(『新編武蔵風土記稿』)と閼伽井坊が、同坊寺領をめぐって双方が目安を捧げての争論に対し、氏政が「太田道也の証文」(永禄九年十一月十八日付太田氏資判物史料198)に基づき、閼伽井坊領であることを申し渡し、以後、他からの非道な言い懸りがあれば、目安を以って訴えよと命じたものである。後北条氏は所領宛行、諸役免除等の既得権については、太田氏時代の権益を保護し、民生の安定に努めていた。