北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十年(一五八二)六月十日
不動院頼長は、足立郡大行院に、同院管下山伏の支配を認める。なお、上足立三十三郷の大行院支配を安堵した年欠七月二十七日・九月十二日付け及び年未詳慶忠・頼長書状を便宜ここに併載する。

225 不動院頼長書状写 〔武州文書〕
態一書進候、月輪院御奉公之者也共、殊ニ拙者奉公之者也共、大行院(1)(庄カ)ニ踞候山伏ハ、年始行を講、役以下之事、急度可申候、其上致入峯(2)者も、無添状候者、合点走有間敷候、於何事も、大行院可為指引次第候、仍当山入峯方御法度可為肝要候、為後日申入候、恐々謹言
  天正十年(壬午)六月十日
          不動院
          頼長(3)(花押)

226 慶忠・頼長連署書状写 〔武州文書〕
其方拘之内、上足立三十三郷之事、今度御続目御下知被遣候之条、他之押妨有之間敷候、上下(4)之境目者、所々守護(5)江被申理、可被相究候、其上、互ニ境目之外へ違乱候者、可為曲事由、被仰出候、在所境目之儀、此刻急度被申定、申分無之様ニ候而、尤候、菟角在所出入之事、守護之御裁口(許カ)次第ニ候、上下三十三郷宛、従前々両人拝領之地ニ候間、其段者、紛候間敷候、恐々謹言
  七月廿七日    慶忠(6)(花押)
        不動院
         頼口(長カ)(花押)
   大行院

227 慶忠書状写 〔武州文書〕
珍札本望之至存候、抑上足立三十三郷之儀、大行院年行事職被相拘候儀、無其紛候、就其、今度御続目之被成御奉書候、然処二下足立之内迄違乱之由、玉林房申来候間、如何候哉之由、大行院方へ尋遣候事候、然者大宮を切候而上足立之由候之条、不及是非候、菟角郡内境目之儀者、所々守護并御代官次第之事候間、有様之段御裁許専用存候、三十三郷之儀、無異儀大行院知行被申様亨ニ御馳走所仰候、玉林房持来候下足立之内、大行院押領之由追々申来候条、一往尋遣候事候、既以御印判境目相立候儀ニ候者、於向後弥不可有其紛候間、此由大行院へも可被仰聞候、恐々謹言
    九月十二日    慶忠(花押)
    細谷三河守(7)殿
        御返報

228 慶忠書状写(折紙) 〔武州文書〕
 猶以、諸郷境目等之儀、御無案内之事候間、被任奉書之旨、上下之儀、有様二境目被相立候て、可被遣候、
雖未申通候、令啓達候、抑先年当御門跡御廻国之刻、大行院与玉林房相論之儀、被遂御糾明、上足立三十三郷義、被任先規、即大行院ニ被仰付候、下足立三十三郷之儀者、玉林房被相究候処、于今双方申分不相済旨候、彼上下境目等儀、此方御無案内之儀ニ候間、有様ニ御裁許所仰候、其上申分於不相究者、為此方可被加御成敗候、万々御指南専用候、恐々謹言
     (ウハ書)
     「(切封墨引)
         御奉行衆   慶忠」
〔読み下し〕
225 ことさら一書進め候、月輪院御奉公の者なりとも、殊に拙者奉公の者なりとも、大行院の(庄)に踞り候山伏は、年始の行を講じ、役以下の事、急度申すべく候、その上入峰致す者も添状無く候わば、合点の走りあるまじく候、何事においても、大行院指し引き次第たるべく候、よって、当山入峰方の御法度肝要たるべく候、後日のため申し入れ候、恐々謹言
226 その方抱えの内、上足立三十三郷の事、今度御続目御下知遣わされ候の条、他の押妨これあるまじく候、上下の境目は、所々の守護へ 理(ことわり)を申され相究めらるべく候、その上互いに境目の外へ違乱候わば、曲事たるべき由、仰せ出だされ候、在所境目の儀、この刻み急度申し定められ、申し分これなき様に候てもっともに候、菟角在所出入りの事、守護の御裁口(許カ)次第に候、上下三十三郷宛(ずつ)、前々より両人拝領の地に候間、その段は、紛れ候まじく候、恐々謹言
227 珍札本望の至りに存じ候、抑(そもそも)上足立三十三郷の儀、大行院(鴻巣市)年行事職相拘えられ候儀、其(その)紛れ無く候、其(それ)に就き今度(このたび)御続目(つぎめ)の御奉書成られ候、然る処に、下足立の内迄違乱の由、玉林房(浦和市)申し来(きた)り候間、如何(いかが)候哉の由、大行院方へ尋ね遣わし候事に候、然らば、大宮(大宮市)を切り候て、上足立の由に候の条、是非に及ばず候、菟角郡内境目の儀は、所々の守護并びに御代官次第の事に候間、有り様の段、御裁許専用に存じ候、三十三郷の儀、異儀無く大行院知行申さる様に、御馳走仰する所に候、玉林房持ち来り候下足立の内、大行院押領の由、追々申し来り候条、一往尋ね遣わし候事に候、既に御印判を以て、境目相立て候儀に候わば、向後に於(おい)て弥(いよいよ)其(その)紛れ有るべからず候間、此の由大行院へも仰せ聞かさるべく候、恐々謹言
228 猶以(もつ)て、諸郷境目の儀、御無案内の事に候間、奉書の旨に任され、上下の儀、有り様に境目相立てられ候て、遣わさるべく候
未(いま)だ申し通さず候といえども、啓し達せしめ候、そもそも先年当御門跡御廻国の刻(きざみ)、大行院と玉林房相論の儀、御糾明を遂げられ、上足立三十三郷の義、先規に任され、即ち大行院に仰せ付けられ候、下足立三十三郷の儀は、玉林房に相究められ候処、今に双方の申し分相済まざる旨に候、彼の上下の境目等の儀、此の方御無案内の儀に候間、有り様に御裁許仰するの所に候、其の上申し分相究めざるに於ては、此の方として御成敗を加えらるべく候、万々御指南専用に候、恐々謹言
〔注〕
(1)鴻巣市下谷にあった本山派修験寺院、小淵不動院の配下に属した。
(2)修験者が修行のため山入りすること、みねいり
(3)葛飾郡小淵にあった本山派修験寺院で、関東修験大先逹として著名な不動院の二代目住職
(4)足立郡の修験を大宮を境に上・下に分けた。
(5)この場合は世俗の領主たる岩付城主またはその上にいる後北条氏を指す。
(6)聖護院の奉行人
(7)比企郡井草鄉の領主 岩付太田氏の家臣
〔解 説〕
史料225は、京都聖護院から本山派修験の関東修験年行事職を認められていた小淵不動院の頼長が、足立郡大行院に、同院配下の山伏が、年始の行を講じ、入峰時には同院の添状を受けるなど、すべて大行院の指ホに従うこと、また峰入りについては御法度に従うべきことを伝えた書状である。古くから上足立三十三郷の伊勢熊野先達職等は大行院に、下足立三十三郷の同職は玉林院(浦和市中尾)にそれぞれ認められていたが、上・下両郷の境をめぐって争論が絶えなかった(年未詳九月十二日慶忠書状写・史料227)。史料226は年未詳であるが、聖護院門跡の奉行人慶忠と不動院の頼長が連署して大行院の上足立三十三郷の修験支配権を聖護院が認めたことを伝え、上・下の境目については大宮をもって境界とし、その争いについては、守護すなわち、両院の所在する岩付領の支配者である岩付城主の裁許に従うことを命じた書状である。この頃、足立郡上・下三十三郷両郷の境目争論がしばしばあったことは、前述の史料とともに年未詳の史料228からも窺い知ることができる。

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