北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第3節 後北条氏の支配と北本周辺

天正十四年(一五八六)二月六日
太田氏房は、比企郡八林・井草郷の百姓らに対し、岩付城普請の人足出役を命ずる。以下翌年にかけての城普請関係史料を掲げる。

232 太田氏房印判状 〔道祖土文書〕
亥歳(1)之大普請人足壱人、先被為借被召仕候、来る十一日ニ、鍬・もっこ持、岩付へ相集、普請可致之、若一日ニ壱人之不参ニ付而者、如御法(2)為過失、五人宛可被召仕者也、仍如件
     (心簡要)
 中十日(3)
      丙戌二月六日

     八林道祖土分


233 太田氏房印判状写(折紙) 〔武州文書〕
亥歳之大普請人足五人、先被為借被召仕候、来十一日ニ鍬・簣子持、岩付へ相集、普請可致之、若一日一人之不参付而者、如御法為過失、五人宛可被召仕者也、仍如件

      (心簡要)
   中十日
      丙戌二月六日

     井草細谷分
 

234 太田氏房印判状 〔道祖土文書〕
来十四日ニ、鍬簣を持中城(4)へ相集、奉行如申普請可致之、何之御領所(5)方も男其郷ニ一人も不残、悉代官召連罷出、五日可走廻候、御前之御普請二候間、何をも被為頼候、若不罷出者有之由、申出ニ付而者、即代官可被召上、為後日仍如件

     (心簡要)
   戌
    六月十一日

  三保谷郷
    道祖土図書助殿

235 太田氏房印判状(小切紙) 〔道祖土文書〕
此度於小田原之普請(6)三人、着致候衆者、人足計可出之、但、福島出羽守・立河山城守、彼両人方へ如着到出、自身者赦免候、着到出処就遅々者、可為重科者也、仍如件
 追日限者、可為惣並(7)

       (心簡要)
   亥
    二月六日
    道祖土図書助殿

236 太田氏房印判状写 〔武州文書〕
籠之材木被為取御用ニ人足五人、来廿一日より罷出、中二日藤波山より、奉行如申、材木請取、岩付大曲輸へ引届、奉行ニ可渡者也、仍如件

       (心簡要)
   亥
    三月十九日

    井草細谷(資満)分

〔読み下し〕
232 亥歳の大普請人足壱人、先に借らさせられ召し仕われ候、来る十一日に鍬・もっこを持ち、岩付へ相集まり普請致すべし、若し一日に一人の不参に付いては、御法の如く過失として、五人宛召し仕わるべきものなり、仍って件の如し
     中十日
233 略
234 来たる十四日に、鍬簣を持ち中城へ相集まり、奉行申す如く普請を致すべし、何れの御領所方も、男はその郷に一人も残さず、悉く代官召し連れ罷り出で、五日走せ廻るべく候、御前の御普請に候間、何れをも頼みとなされ候、もし罷り出でざる者これある由、申し出るに付きては、即ち代官召し上げらるべし、後日のため、仍って件の如し
235 この度、小田原の普請三人において着致し候衆は、人足計りこれを出すべし、但し、福島出羽守、立河山城守かの両人方へ着到の如く出だし、自身は赦免し候、着到出だす処遅々につきては、重科たるべきものなり、仍って件の如し
     追って、日限は惣並たるべし
236 籠の材木取らせらるる御用に人足五人、来る二十一日より罷り出で、中二日藤波山より奉行申す如く、材木請取り、岩付大曲輸へ引き届け奉行に渡すべきものなり、仍って件の如し
〔注〕
(1)甲申年の前年天正十一年
(2)鴻巣市箕田付近 元荒川の水を引いて水田を耕植した
(3)元荒川から堤防を越して用水を取り入れる堰
(4)くわともっこ
(5)川島町八林
〔解 説〕
史料232・233は、太田氏房が比企郡八林・井草郷の百姓らに対し、岩付城の大普請役を命じたものである。この普請役は来年の大普請人足を先借して徴発したもので、前例のないこととして切迫した情勢が窺える。前年の六月、大坂城の豊臣秀吉が関東出兵を北関東の諸大名に表明しており、後北条氏はその対策として軍備強化を図ったものである。以後、大々的な城普請と農兵動員が進められることになる。なお先借人足数は史料230の人足数と一致しており、両郷の徴発定数を示していると思われる。史料234は、岩付城普請のため、来たる十四日までに、比企郡三保谷郷(川島町)の男子を一人も残さず代官が引き連れて参集させ、五日間の夫役に従うことを、代官道祖土満兼に指令し、もしこの普請役を拒否して出役しない者があった場合は、満兼の代官を免じるという城主太田氏房の印判状である。すでに、本年二月には、前述のように翌年の普請役を繰り上げて岩付城修築に徴集していた。本史料の普請役は郷中の総動員であり、二月の動員以上のものである。当郷は後北条氏直轄地(御領所)であるが、当然ながら岩付領の他の郷村にも同様な総動員がなされたと解すべきである。この総動員は、「御前の普請」、すなわち小田原本城の普請を名目になされており、正月の小田原本城修築のための動員に対応しているといえる。史料235も小田原城普請関係文書である。
史料236は、比企郡井草郷内の細谷資満の知行地より、「籠」(岩付城防備用)の材木運搬のため、人足五人を来る二十ー日より出役させるよう、同地の百姓に命じた太田氏房の印判状である。これによると、中二日、すなわち二十三日まで、藤波山で奉行の指示に従って材木を受取り、岩付城大曲輸まで運搬するように指令している。小田原城のみならず、当城においても城普請が進行しており、そのための材木運搬である。こうして後北条氏や氏房は領内を挙げて対秀吉の防戦体制に入っていくのである。

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