北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

治承四年(一一八〇)十月四日
畠山重忠・河越重頼・江戸重長は、長井渡で源頼朝に、帰伏する。

51 吾妻鏡 治承四年十月四日
四日癸未、畠山次郎重忠(1)、参会長井渡(2)、河越太郎重頼、江戸太郎重長又参上、此輩討三浦介義明(3)者也、而義澄以下子息門葉多以候御共励武功、重長等者、雖奉射源家、不被抽賞有勢之輩者、縡難成歟、存忠直者更不可貽慣之旨、兼以被仰含于三浦一党、彼等申無異心之趣、仍各相互合眼列座者也
〔読み下し〕
51 四日癸未、畠山次郎重忠、長井の渡に参会す、河越太郎重頼・江戸太郎重長また参上す、この輩(ともがら)三浦介義明を討ちし者なり、しかして義澄以下(いげ)の子息門葉多くもって御共に候い、武功を励む、重長等は、源家を射奉るといえども、有勢の輩を抽賞せられずんば、こと成り難からんか、忠直を存ずる者はさらに憤りを貽(のこ)すべからざるの旨、かねてもって三浦が一党に仰せ含めらる、彼等異心なきの趣を申す、よりておのおの相互に合眼して座に列する者なり
〔注〕
(1)桓武平氏良文流の秩父氏出身で、重忠・重頼が秩父重綱の曽孫に、重長が孫に当たる。嫡男流の畠山氏は畠山荘(川本町畠山)、次男流の河越氏は河越荘(川越市上戸等)、四男流の江戸氏は江戸郷(東京都千代田区)を本貫とする。この秩父一族は武蔵国最大の武士団である。
(2)隅田川の渡し、石浜(東京都台東区浅草)から豊島(北区豊烏)にかけての何れかの地といわれるが、その位置については不詳
(3)三浦氏の惣領、公義の曽孫、義澄はその嫡子
〔解 説〕
本史料は、武蔵国最大の武士団である秩父一族が、頼朝に帰順した記事である。平氏方の畠山重忠は、石橋山合戦後の八月二十六日、重頼・道長の応援を得て、武蔵国の軍勢を率いて、三浦氏の本城衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻撃した。八十余歳の三浦義明が戦死し、一族の主力は嫡子義澄が率いて安房国に渡り、頼朝と合流した。頼朝が鎌倉に入り関東を制覇するためには、武蔵国を支配せねばならず、このためには秩父一族の帰順は不可欠である。しかし、頼朝挙兵の主力であった三浦氏との関係からか、すぐには頼朝の下に参加出来ず、色々な折衝の末に、この日帰順したのである。ここに頼朝の武蔵国制覇の道は開け、武蔵武士は頼朝麾下に加わるとになる。

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