北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

宝治元年(一二四七)六月五日
安達景盛の挑発により、三浦泰村一族が鎌倉に滅亡する。

103 吾妻鏡 宝治元年六月五日条
五日丙戌、天晴、辰刻小雨灑、今暁鶏鳴以後、鎌倉中弥物忍、未明左親衛先遣万年馬入道於泰村之許、被仰可相鎮郎従等騒動之由、次付平左衛門入道盛阿、被遣御書於同人、是則世上物忿、若天魔之入人性歟、於上計者、非可被誅伐貴殿之構歟、此上如日来不可有異心之趣也、剰被載加御誓言云々、泰村披御書之時、盛阿以詞述和平子細、泰村殊喜悦、亦具所申御返事也、盛阿起座之後、泰村猶在出居、妻室自持来湯潰於其前勧之、賀安堵之仰、泰村一口用之、即反吐云々、爱高野入道覚地伝聞被遣御使之旨、招子息秋田城介義景、孫子九郎泰盛(各兼着、甲冑)尽諷詞云、被遣和平御書於若州之上者、向後彼氏族独窮驕、益蔑如当家之時、憨顕対揚所存者、還可逢殃之条、置而無疑、只任運於天、今朝湏決雌雄、曽莫期後日者、依之城九郎泰盛、大曽祢左衛門尉長泰、武藤左衛門尉景頼、橘薩摩十郎公義以下、一味之族引卒軍士、馳出甘縄之館、同門前小路東行、到若宮大路中下馬橋北、打渡鶴岡宮寺赤橋、相構盛阿帰参以前、於神護寺門外作時声、公義差揚五石畳文之旗、進于筋替橋北辺、飛鳴鏑、此間所張陣於宮中之勇士悉相加之、而泰村今更乍仰天、令家子郎従等防戦之処、(中略)折節北風変南之間、放火於泰村南隣之人屋、風頻扇、煙覆彼舘、泰村并伴党咽烟遁出舘、参籠于故右大将軍法華堂、(中略)両方挑戦者殆経三刻也、敵陣箭窮カ尽、而泰村以下為宗之輩二百七十六人、都合五百余人令自殺、此中被聴幕府番帳之類二百六十人云々
(後略)
〔読み下し〕
103 五日丙戌、天晴、辰刻(たつのこく)小雨灑(ふ)る、今暁鶏鳴以後、鎌倉中いよいよ物忿(ぶつそう)、未明左親衛、まず万年馬入道を泰村(三浦)の許に遣わし、郎従等の騒動を相鎮むべきの由を仰せらる、ついで平左衛門入道盛阿(盛綱)に付し、御書を同人に遣わさる、これすなわち世上の物忿、もし天魔の人性に入らんか、上計においては、貴殿を誅伐せらるべきの構えにあらずか、この上は日来の如く異心あるべからずの趣なり、あまつさえ御誓言を載せ加えらると云々、泰村御書を披くの時、盛阿詞をもって和平の子細を述ぶ、泰村ことに喜悦しまたつぶさに御返事を申す所なり、盛阿起座の後、泰村なお出居にあり、妻室みずから湯漬をその前に持ち来たりてこれを勧め、安堵の仰せを賀す、泰村一口これを用い、すなわち反吐すと云々、ここに高野入道覚地、御使を遣わさるるの旨を伝え聞き、子息秋田城介義景、孫子九郎泰盛(おのおのかねて甲冑を着す)を招き、諷詞を尽して云わく、和平の御書を若州(三浦泰村)に遣わさるるの上は、向後(きょうこう)かの氏族ひとり驕りを窮め、ますます当家を蔑如(べつじょ)するの時、なまじいに対揚の所存を顕わさば、かえって殃(わざわい)に逢うべきの条、置きて疑いなし、ただ運を天に任せ、今朝すべからく雌雄を決すべし、かつて後日を期すことなかれてえれば、これにより城九郎泰盛・大曽祢左衛門尉長泰・武藤左衛門尉景頼・橘薩摩十郎公義以下(いげ)、一味の族、軍士を引卒し、甘縄の館を馳け出ず、同門前の小路を東行し、若宮大路中下馬橋の北に到り、鶴岡宮寺の赤橋を打ち渡り、相構えて盛阿帰参以前に、神護寺の門外において時の声を作る、公義五石畳文の旗を差し揚げ、筋替橋の北辺に進み、鳴鏑(かぶら)を飛ばす、この間陣を宮中に張る所の勇士ことごとくこれに相加わる、しかして泰村、いまさらながら仰天し、家子郎従等をして防戦せしむるの処、(中略)おりふし北風南に変わるの間、泰村が南隣の人屋に放火す、風しきりに扇(あお)ぎ、煙かの館を覆う、泰村ならびに伴党、烟に咽び館を遁れ出で、故右大将(源頼朝)軍法華堂に参籠す、(中略)両方挑み戦う者ほとんど三刻を経るなり、敵陣の箭窮り力尽く、しかして泰村以下宗たるの輩二百七十六人、都合五百余人自殺せしむ、この中幕府の番帳を聴さるるの類二百六十人と云々
〔解 説〕
仁治三年(一二四二)、執権北条泰時が死去し、嫡孫の経時が執権に就任したが、翌々年、将軍藤原頼経が更迭され、子の頼嗣が五代将軍となる。次いで寛元四年(一二四六)、経時の死去で、一門の名越氏(泰時の弟朝時を祖とする)と弟時頼の得宗(義時の法名で、この嫡流を指し、北条氏惣領家のこと)とが衝突し、名越氏が敗れる名越の変が起る。さらに、前将軍頼経が鎌倉から京都に追放される宮騒動が生じた。これらの政変の背景には、幕府草創の功臣で三浦半島を本拠とし、鎌倉の護衛隊的位置を占める相模国守護の三浦氏の姿があった。三浦氏は当時、北条氏に比肩できた最大の豪族である。
右掲の史料は三浦一党が鎌倉に滅亡した三浦合戦に関するものである。承久の乱後、紀伊国の髙野山に隠遁していた、執権時頼の外祖父安逹景盛が、四月四日、本宅の甘縄亭(神奈川県鎌倉市長谷一丁目)に戻った。彼は精カ的に動き、三浦氏を挑発した。かくて、史料103に見られるようにこの日、両者は合戦となり、三浦一党は惣領泰村(義村子)以下が滅亡したのである。時頼の和平使者が帰還する以前、景盛の叱咤により、嫡孫泰盛の率いる安逹勢は先制攻撃の火蓋を切った。泰村も直ちに反撃したが、昼すぎ、居館に火を放たれて館を捨て、故頼朝の法華堂に最後の陣を張った。しかし、数時間の激闘の末、泰村以下は堂前に自害した。その数は五百人を越え、このうち幕府侍所の番帳等に名を乗せる者、すなわち御家人が二百六十人も含まれていた。一党の勢力の大きさを窺い得る。ここに、北条氏に肩を並べていた三浦氏嫡系は滅亡し、梶原景時失脚(史料74)以来、ずっと続いた北条氏と他氏との幕府権力をめぐる抗争は一応終結し、北条氏を脅かす存在は消えた。また、安逹氏は執権時頼の外戚でもあり、より一層、幕府中枢に位置することになる。なお、宝治合戦で滅んだ人々を見ると、武蔵国御家人はごく僅かで、ほとんどが北条氏得宗側に付いたことになる。

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