北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

徳治ニ年(一三〇七)五月
北条貞時は円覚寺での父時宗の忌日結番を定める。一番に足立源左衛門入道が入る。

112 円覚寺毎月四日大斎結番次第  〔円覚寺文書〕
       (北条貞時)(花押)
円覚寺(1)毎月四日(北条時宗忌日)大斎結番事
一 番
 (中略)
 安東四郎右衛門入道 足立源左衛門入道
 (中略》
右、守結番次第、無懈怠可致沙汰之状如件
 徳治二年五月 日
〔読み下し〕
112 略
〔注〕
(1) 弘安五年(一二八二)、北条時宗を開基として創建される。臨済宗で、神奈川県鎌倉市にある。時頼開基の建長寺と並ぶ得宗の帰衣する鎌倉市内最髙の禅寺。
〔解 説〕
本史料は、円覚寺における毎月四日の斎会の結番を、北条貞時が定めたものである。貞時父の時宗は弘安七年(一二八四)四月四日に死去しているので、これは時宗の月忌会である。この結番は一二番、各八名で構成されており、一番に足立源左衛門入道が見える。このメンバーを見ると、義時以来の得宗被官(御内人)である長崎(平)・工藤・諏訪・安東・南条・尾藤氏等がおり、この他にも多くの得宗被官を確認できる。また、これは得宗家の行事ゆえ、結番を命じられた人々は得宗被官といえる。よって、足立源左衛門入道は得宗被官と考えられる。これ以後、得宗被官と確認しうる足立氏を何人か見出だすことができる。これらの足立氏は系図上に確認できないが、霜月騒動で嫡宗が滅亡しても、元氏系が生残ったように(史料109)、庶流は族滅を免れ、得宗被官として多くは生き残ったことになる。この点、安達景盛の家人で丹党出身の加治家季の子孫が、騒動後に得宗被官に姿を見せるのと同趣旨である。武蔵国の御家人が政変の中で没落し得宗被官化する例に、足立氏も含まれるのである。得宗はこうして没落御家人を直接に被官化して、支配力を強めたのである。

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