北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

観応三年・正平七年(一三五二)正月〜三月
高麗経澄が、武蔵野合戦などの軍忠状を提出する。それに鬼窪で挙兵したこと、羽称蔵合戦で難波田九郎三郎を打ちとったこと、人見原などの合戦で渋江氏や鬼窪氏らの見知をうけたことなどがみえる。

122 高麗経澄軍忠状 〔町田文書(1)〕
高麗(2)彦四郎経澄軍忠事
(一)昨年(観応二)八月、下給鎌倉殿(3)御教書、馳越下野国宇都宮、致忠節畢
薬師寺加賀守入道(4)宇都宮下向之間、遂対面、可令誅伐上椙相民部大輔(5)之由、條々致談合畢
同十二月十七日、於鬼窪(6)揚御旗畢
同十八日、自鬼窪打立、符中(7)罷向之処、同十九日、於羽祢蔵合戦(8)時、難波田九郎三郎(9)以下凶徒等打捕候畢
同夜於阿須垣原取陣之処、御敵吉江新左衛門尉(10)寄来口(問)、致散々合戦□□(の処)、薬師寺中務丞令見知畢
同廿日、押寄符中、追散御敵等、焼払小沢城(11)畢
同廿九日、於足柄山(12)追落御敵等畢
今年正月一日、馳参伊豆国符(13)、至于鎌倉御共仕畢
右、軍忠之次第如件
  正平七年正月 日
        「承了、(花押)(14)」
 〇虫損ハ「武州文書」十四高麗郡所収文書ニヨリ補ウ。
〔読み下し〕
122 高麗彦四郎経澄軍忠の事
(一)去年観応二八月、鎌倉殿御教書を下し給い、下野国宇都宮に馳せ越え、忠節を致しおわんぬ
薬師寺加賀守入道宇都宮下向の間、対面を遂げ、上杉民部大輔を誅伐せしむべきの由、条々談合致しおわんぬ
同十二月十七日、鬼窪において御旗を揚げおわんぬ
同十八日、鬼窪より打ち立ち、符(府、以下同じ)中に罷り向かうのところ、同十九日、羽祢蔵合戦の時において、難波田九郎三郎以下の凶徒等を打ち捕らえ候いおわんぬ
同夜阿須垣原において陣を取るの処、御敵吉江新左衛門尉寄せ来るの(間)、散々合戦を致す(の処)、薬師寺中務丞見知せしめおわんぬ
同二十日、符中に押し寄せ、御敵等を追い散らし、小沢城を焼き払いおわんぬ
同二十九日、足柄山において御敵等を追い落としおわんぬ
今年正月一日、伊豆国符に馳せ参じ、鎌倉に至る御共仕りおわんぬ
右、軍忠の次第件の如し
  正平七年正月 日
       「承りおわんぬ(花押)」
〔注〕
(1)入間郡日高町新堀六七一 町田純一家蔵
(2)高麗氏は、武蔵七党丹党の出で、秩父基房の子の経家が入間郡高麗郷(飯能市)を本拠地としたことからこの名字を称した。
(3)足利尊氏
(4)武蔵守護代薬師寺公義
(5)関東管領上杉憲顕
(6)南埼玉郡白岡町
(7)束京都府中市
(8)浦和市、富士見市、志木市にまたがる地域
(9)武蔵七党村山党の出で、富士見市南畑あたりを本拠地とした。
(10)足利直義側の武蔵守護代に「吉江中務」(『太平記』)という人物がみえるが、この一族と思われる。
(11)神奈川県川崎市多摩区内にあった。
(12)神奈川県南足柄市と静岡県駿東郡小山町にまたがる山名
(13)静岡県三島市
(14)薬師寺公義
〔解 説〕
史料は、観応の擾乱のさい尊氏派として活動した高麗経澄の軍忠状である。これによれば経澄は、観応二年八月に足利尊氏の出陣要誚をうけて宇都宮へ出陣したことから始まり、十二月十七日の鬼窪での挙兵後、守護代薬師寺公義に属し、同月十九日の羽祢蔵合戦、阿須垣原合戦、二十日には武蔵国府中、小沢城の敵をうち、翌正平七年(観応三年)正月には伊豆国の国府で京都から下向してきた尊氏軍と合流し、ついで尊氏とともに鎌倉に入っている。

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