北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第1節 鎌倉期の北本

治承四年(一一八〇)十二月十二日
源頼朝は大倉新御所に移る。安達盛長・畠山重忠らが供奉する。

54 吾妻鏡 治承四年十二月十二日条
十二日庚寅、天晴風静、亥尅、前武衛将軍新造御亭有御移徙之儀、為景義奉行、去十月有事始、令営作于大倉郷也、時尅、自上総権介広常之宅、入御新亭、御水干・御騎馬(石禾栗毛、)和田小太郎義盛候最前、加々美次郎長清候御駕左「方」、毛呂冠者秀(季カ)光在同右、北条殿、同四郎主、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同太郎胤正、同六郎大夫胤頼、藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱以下供奉、畠山次郎重忠候最末、入御于寝殿之後、御共輩参侍所(十八ケ間)、二行対座、義盛候其中央、着到云々、凢出仕之者三百十一人云々、又御家人等同構宿館、自尔以降、東国皆見其有道、推而為鎌倉主、所素辺鄙、而海人野叟之外、卜居之類少之、正当于此時間閭巷直路、村里授号、加之家屋並聾、門扉輾軒云々
〔読み下し〕
54 十二日庚寅、天晴れ風静かなり、亥尅(いのこく)、前武衛将軍(源頼朝)が新造の御亭に御移徙(わたまし)の儀あり、景義(大場)奉行たり、去んぬる十月事始めあり、大倉郷に営作せしむるなり、時尅、上総権介広常が宅より、新亭に入り御う、御水干、御騎馬、(石禾、栗毛、)和田小太郎義盛最前に候う、加々美次郎長清御駕の左に候う、毛呂冠者秀(季)光同じく右にあり、(中略)寝殿に入り御うの後、御共の輩(ともがら)侍所(十八ケ間)に参り、二行に対座す、義盛その中央に候い、着到すと云々、およそ出仕の者三百十一人と云々、また御家人等同じく宿館を構う、しかりしより以降、東国みなその有道を見て、推して鎌倉の主となす、所はもとより辺鄙(へんぴ)、しかして海人(あまびと)野叟(やそう)の外、卜居の類(たぐい)これ少なし、まさにこの時に当る間、閭巷(りょこう)路を直にし、村里号を授く、しかのみならず家屋甍を並べ、門扉軒を輾(きし)ると云々
〔解 説〕
鎌倉に入った源頼朝が、御所を新築し移ったことを伝えるのが、本記事である。頼朝は鎌倉に入部の直後、十月九日、御所の新築を開始し、この日、入居儀式を行ったのである。この間、二十日には富士川合戦で平氏を敗走させ、二十二日には相模国府(神奈川県大磯町)で一斉功賞を行い、十一月初旬には常陸国の佐竹氏を攻撃している。この入居儀式では、先頭に、武家棟梁たる「鎌倉殿」源頼朝と家人(御家人)の統制を任務とする侍所の初代別当(長官)に任命されたばかりの和田義盛(三浦義澄甥)を、後尾に畠山重忠と、武相両国を代表する武士を配した行列で、新御所に入った。武蔵武士では、この行列に安逹盛畏も供奉していた。新御所に出仕した御家人は三一一人を数え、ここに実力で南関東を奪取し、関東に覇権した源頼朝の権力の門出の儀式が無事に終えたのである。この大倉御所(神奈川県鎌倉市雪ノ下三丁目)は、嘉禄元年(一二二五)、若宮御所に移るまで、将軍御所(幕府)として用いられたのである。かくて、小漁村に過ぎなかった鎌倉は、これ以後、「鎌倉殿」の武家政権の首都として発展していくのである。

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