北本市史 資料編 古代・中世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 古代・中世

第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

応安元年・正平二十三年(一三六八)八月二十一日
関東公方足利金王丸(氏満)は、天下安全・武運長久のため、箕田郷内河連村を鶴岡八幡宮に寄進する。

131 足利金王丸寄進状 〔鶴岡八幡宮文書(1)〕
寄進
 鶴岡八幡宮
  武蔵国箕田郷地頭職内河連村(2)(除寺社領并人給地)事
右、為天下安全武運長久、所被寄進也者、守先例可被致沙汰之状、依仰執達如件
 応安元年八月廿一日 沙弥(3) (花押)
〔読み下し〕
131 寄進
 鶴岡八幡宮
  武蔵国箕田郷地頭職内河連村寺社領ならびに人給地を除くの事
 右、天下安全・武運長久のため、寄進せらるるところなりてえれば、先例を守り沙汰致さるべきの状、仰せによって執達件の如し
〔注〕
(1)神奈川県鎌倉市雪ノ下二ノ一ノ三一 鶴岡八幡宮蔵
(2)鴻巣市川面(かわつら)のあたり
(3)上杉憲顕(法名道昌)
〔解 説〕
この史料は、関東公方足利金王丸(のちの氏満)が、鶴岡八幡宮に、天下安全と武運長久を目的として箕田郷地頭職内河連村を寄進したものである。但し河連村全体ではなく、すでに他の寺社の所領になっているところと他の武士たちの所領となっているところを除いた部分である。
この文書が出されている時点では、武蔵平一揆と関東府との戦闘は、六月に行われた河越合戦で一応関東府軍が勝ったものの、結着はまだついていなかった。平一揆の主力であった河越氏らは敗れたものの、これに味方する宇都宮氏がまだ敵対していたからである。従って「天下安全・武運長久」とあるように、宇都宮氏追討、ひいては平一揆の乱を鎮圧を目指して、足利金王丸による鶴岡八幡宮への箕田郷地頭職内河連村の寄進が行われたのであろう。
この祈りが通じたのか、宇都宮氏との合戦は、この文書が出された前後から始まり、九月に入って同氏を降服させ、鎮圧に成功している。

<< 前のページに戻る