北本市史 資料編 古代・中世

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第2章 中世の北本地域

第2節 南北朝・室町期の展開

享徳二年(一四五三)四月十日
足利鍰阿寺領比企郡戸守郷代官十郎三郎は、尾美野・八林用水につき、尾美野郷住人の押妨を申し出る。

158 十郎三郎目安案 〔鍰阿寺文書(1)〕
(端裏書)「就堰杭目安之案文」
  鍰阿寺(2)御領戸守郷御代官十郎三郎謹言□(上)
右、尾美野(3)・八林用水事、戸守郷仁相留之由、彼自両郷申掠候哉、自符(府)中被成切紙(4)申候、驚存候、仍去七日、彼堰於仕、用水之流当郷仁無留子細之候、若御不審候者、彼堰庭於可有御見地候歟、然仁是分子細者、於郷中可申談事候之処、自尾美野偏無理之子□(細)申間、依承引(6)不仕、自去年至于今不事行(7)候、雖然尾美野御代官志水方御口入忝之間、然者曲理、杭於□二本可抜申候、然者御代官幷尾美野郷老者一両人、以判形(8)給書札候者、可随御口入由申処、尾美野郷老者口不可致判形、政所志水方計可有判形之由申間、不承引仕、于今相違仕候、彼口入之時、尾美野政所志水方折紙(9)私口写置候、為御披見進上仕候、次又、戸守郷用水之根本之事者、水於通候樋之口、前々、立者四寸、横者八寸候、彼時者杭之□組平垣、其上仁置土、自其上落水候、然処先年自尾美野如申者、樋之ロ於少分広成天、平垣於可令略之由申之間、任彼望、垣於令略、杭計置候天、其已後数年罷過候、然彼杭少々朽折候之間、去年杭於四五本新打替候、因之初天杭於打用水留之由、申掠候哉,不可然候、其故者、古杭共于今明鏡候、如此条々、若偽申候者、
天照大神(10)・八幡大菩薩、殊者当国六所大明神、惣日本国)諸神可罷(蒙脱カ)御罰候□□(者也カ)
  享徳二年卯月十日
〔読み下し〕
158 鍰阿寺(ばんなじ)御領戸守郷御代官十郎三郎謹んで言口(上す)、
右、尾美野(おみの)・八林(やつばやし)用水の事、戸守郷に相留むるの由、かの両郷より申し掠め候や、府中より切紙をなされ申し候、驚き存じ候、よって去んぬる七日、かの堰を仕り、用水の流れ当郷に留む子細なく候、もし御不審候わば、かの堰庭を御見地(知)あるべく候か、しかるにこの分の子細は、郷中において申し談ずべき事候の処、尾美野よりひとえに無理の子口(細)を申す間、承引(しょういん)仕らずにより、去年より今に至り事行かず候、しかりといえども尾美野御代官志水方御口入(くにゅう)忝(かたじけな)きの間、しからば理(ことわり)を曲げ、杭を口二本抜き申すべく候、しからば御代官ならびに尾美野郷老者ー両人、判形をもって書札を給い候わば、御口入に随うべきの由申すの処、尾美野郷の老者口判形を致すべからず、政所志水方の計らい判形あるべきの由申す間、承引仕らず、今に相違仕り候、かの口入の時、尾美野政所志水方折紙私に□写し置き候、御披見がため進上仕り候、ついで又戸守郷用水の根本の事は、水を通し候樋のロ、前々(まえまえ)は、立は四寸、横は八寸に候、かの時は杭の口平垣(ひらがき)に組み、その上に土を置き、その上より水を落し候、しかるところ、先年尾美野より申す如くんば、樋のロを少分広くなりて、平垣を略せしむべきの由申すの間、かの望みに任せ、垣を略さしめ、杭計(ばかり)を置き候て、それ已後数年罷り過ぎ候、しからばかの杭少々朽ち折れ候間、去年杭を四・五本新たに打ち替え候、これにより初めて杭を用水留に打つの由、申し掠め候や、しかるべからず候、その故は、古杭とも今に明鏡候、かくの如きの条々、もし偽り申し候わば、天照大神・八幡大菩薩、ことには当国六所大明神、そうじては日本国諸神の御罰を罷り(蒙る)べく候□□(ものなり)
〔注〕
(1)栃木県足利市家富町ニニ二〇 鑁阿寺蔵
(2)足利市家富町にある真言宗の寺で、創建は足利義兼が館のなかに営んだ持払堂に始まるといわれている。寺号は足利義兼の法名「鑁阿」からきている。
(3)比企郡川島町上小見野・下小見野のあたり
(4)きりがみ 通常文書に用いられる一枚の紙(竪紙(たてがみ)といった)を切って用いたもの。時代により相違はあるが、大体は略式の場合に用いられた。
(5)見知、実際に調べること
(6)しょういん 納得すること
(7)ことゆかず そのことが行われていないということ
(8)はんぎよう 書かれている内容を認め署判すること
(9)おりがみ 竪紙を半分におり使用したもので、切紙同様、略式の場合に用いられた。
(10)天照大神以下が改行されているが、これは「平出(へいしゅつ)」と呼ばれた書き方で、敬意を表わす時に用いられた
〔解 説〕
この史料は、戸守郷と尾美野・八林両郷との間におこった用水争論について、戸守郷代官である十郎三郎の言上書である。
代官十郎三郎によれば、尾美野・八林郷に関係する用水に関して、戸守郷側が水を止めたとして武蔵国衙(この当時は、上杉氏が実質責任者であった)に訴え出たため、上杉側よりそのことについての問い合せがあり、驚いている。実際に七月に堰をつくってはいるが、水を当郷に留めている事実はない。もし不審であるならば堰の様子を見てくれれば分ることである。さらにこのことは郷同志で話し合えばよいことであるが、尾美野側が流量につき無理を言うため、今まで解決にはいたっていない。その際、尾美野郷代官志水氏が口入して、以前からのきまりを改め、杭を二本抜くことでまとまったが、尾美野郷の老者(おとな)が承認の判を据えなかったことで結局ものわかれにおわってしまった。さらに用水を通す樋であるが、縦は四寸、横は八寸のものであるが、はじめ杭を打ち盛土し、その上を水を通していたが、尾美野側の申し出により、水を通す樋の口の大きさを少し広くし、杭を残し平垣をやめた。その後数年をへて杭が朽ちてきたため去年四・五本の杭を打ち替えたが、このことを指して杭を打って用水を留めたといっているが、そのときの古杭があることから尾美野側の言い分は認められないことである。以上述べてきたことが偽りであるならば、いかなる罰をこうむってもよいというものであった。
中世の農業は、まだその技術も余り進んでおらず、とくに水に関してはほとんど自然にたよっていたのが実情であった。この用水争いを起した戸守郷、尾美野郷、八林郷も例外ではなく、通称「長楽(ながらく)用水」と呼ばれている用水を利用していた。今回の争いもこの用水の取水量をめぐってであり、流末に位置し水にめぐまれていなかった尾美野・八林両郷にとっては死活問題であった。中世においては、自分の郷へ少しでも多くの水を得たいがための努力を怠らず、ときには領主の権力を意識して行動を起こすことが多かったが、この場合も尾美野郷・八林郷ともに上杉氏の関係所領であり、従って尾美野郷側では、その権力を背景に、樋の大きさ、杭の数の問題をもち出し、上杉氏が実権を握っていた武蔵国衙に訴え出たものと思われる。

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