北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第2節 金石資料

1 板碑

(六) 初発期と初発期に続く代表的板碑
 通常、建長二年(一二五〇)までの板碑を初発期の板碑と区分する説がある。建長三年には東京都板橋区まで、荒川沿岸の諸地域に板碑が波及し、様式的に建長二年以前と同三年以後では大きく変化する画期となっているからである。市域には東光寺(石戸)の先述した15-01の他に15-02、15-03、15-04の四基がある。初発期の板碑は県内に三九基あり、行田市と東松山市の六基に次いで北本市と吹上町に四基が所在する。初発期板碑が四基も所在することは北本市の板碑の最大特徴である。四基はすべて東光寺にあり、造立者として鎌倉政権と直結した有力者が想定される。
 1 東光寺阿弥陀三尊種子板碑
 15-02は高さ一一二センチ、幅六二センチ、厚さ八センチ(地上部分測定値)、二条線は側面のみ刻みがある。キリーク・サ・サクの三尊種子は横幅の広い古式の書体で、月輪・蓮座ともに無い。「十悪五逆(じゅうあくごぎゃく) 臨終苦遍(りんじゅうくひつ)教称十念(きょうしょうじゅうねん) 花開金色(けかいこんじき)」の『観無量寿経』「第一六観下品下生の条」を基につくられた偈である。紀年号は「寛元四年(一二四六)大才丙午三月四日」である。県内で二十五番目に古い板碑である。中央よりやや右に節理が通っている。摩耗が著しく文字の判読は困難である。服部清道氏の読みに従った。東光寺の初発期板碑はいづれも分厚く、偈の文字も個性の強い文字で、全体にずんぐりした感じに造られている。
 二条線は側面にのみ刻みがあり、碑面にはない。当初は墨書でもあったものであろうか。日本最古の嘉禄年銘板碑にすでに頂部山形と二条線が作り出されている。この二点は板碑外形の必須条件ともなっている。市域の板碑には五形式の二条線があるが、典型例の変則例は25-05で、一本しか彫られていない。うっかりミスの類である。

図13 東光寺寛元四年銘阿弥陀三尊種子板碑(15-02)


     サ      十悪五逆   
 キリーク       臨終苦遍   
     サク     教称十念   
            花開金色   
     寛元四年才丙午三月四日   

図14 小島正人家文安二年銘阿弥陀一尊種子板碑(25-05)


         十二月  
 キリーク蓮座 文安二年  
          六日  


 2 東光寺寛元四年銘阿弥陀三尊種子板碑
 東光寺(石戸)の15-03はキリーク・サ・サクの阿弥陀三尊。二条線は側面のみ刻まれている。月輪・蓮座ともに無い。碑面下部に「卓于池上(たくうちじょう) 一丈六像(いちじょうろくぞう) 変現大小(へんげんだいしょう) 乃無定相(ないむじょうそう)」の偈は『観無量寿経』「第一三、雑想観」をもとに作った偈と15-02と同一紀年号がある。県内で二十六番目に古い板碑である。15-02よりスリムであるが 古式豊かな塔である。高さ一一八・五センチ、幅五〇センチ、厚さ一〇・五センチ。

図15 東光寺寛元四年銘阿弥陀三尊種子板碑(15-03)


     サ      卓于池上   
 キリーク       一丈六蔵   
     サク     変現大小   
            乃無定相   
寛元四年才丙午三月四日   


 3 寿命院阿弥陀一尊種子板碑
 寿命院の40-01は頂部山形部分が斜めにそがれている。天蓋があり、その下に縦長の種子キリーク・蓮座があり、「建長三季辛亥八月」と紀年号が刻まれている。県内で四十番目に古い板碑である。細かな細工による天蓋は板碑に表現された日本最古の天蓋である。蓮座の中房もレリーフ的に刻んでいるし、種子や蓮座や枠線などの彫りも深く丁寧な造りである。欠損はあるものの全体に端正な往時の美しさは損なわれてはいない。高さ一一五センチ、幅三八・三センチ、厚さ五・五センチ。北本市指定文化財である。

図16 寿命院建長三年銘阿弥陀一尊種子板碑(40-01)


 蓋       建長三季辛亥
   キリーク蓮座   
 天       八月   


 4 東光寺阿弥陀三尊種子板碑
 東光寺(石戸)の15-04は月輪を伴うキリーク・サ・サクの阿弥陀三尊種子で、下部に「設我得仏(せつがとくぶつ) 十方衆生(じっぽうしゅうしゅうじょう) 至心信楽(ししんしんぎょう) 欲生我国(よくしょうがこく) 乃至十念(ないしじゅうねん) 若不生者(にゃくふしょうじゃ) 不取正覚(ふしゅうしょうがく)」という『大無量寿経』の「念仏往生の願」からとられた偈がはいるとともに「右志者為過去口口聖霊往生極楽證菩提也」の願文が入っている。偈は阿弥陀如来四八願中最も著名な第一八願で「至信信楽の願」あるいは「信心成就の願」など様々に呼ばれている。浄土真宗に拠る造立が説かれている。紀年号は判読しづらくなっているが、かっては「建長三年大才辛亥十月晦日」と読めた。県内で四十一番目に古い板碑である。主尊と脇侍と銘文とのあいだがそれぞれ二本の沈線で区切られている。異形の枠線である。東光寺には紀年号が判読できなくなっているが、15-02の大形板碑が同様の手法をとっている。

図17 東光寺建長三年銘阿弥陀三尊種子板碑(15-04)


  
       設我得仏  
     サ 
十方衆生  
       至心信楽  
 キリーク輪月  欲生我国  
     乃至十念  
     サク
若不生者  
       不取正覚  
         右志者為過去□   
         □聖霊往生極   
         楽證菩提也   
     建長三年 大才 
辛亥 
十月晦日  


 5 東光寺阿弥陀三尊種子板碑
 東光寺(石戸)の15-05はキリーク・サ・サクの阿弥陀三照種子板碑である。「但聞仏名(たんもんぶつみょう) 二菩薩名(にぼさつみょう) 除無量劫(じょむりょうこう) 生死之罪(しょうししざい)」は『観無量寿経』の結語から取られた偈である。「右志者為過去 大輔公尊霊出 離生死往生極 楽頓證菩提也」の願文が入っている。紀年号は「文応元年大才庚申六月廿三日」である。高さ一一五・五センチ、幅五六センチ、厚さ七・五センチ。

図18 東光寺文応元年銘阿弥陀三尊種子板碑(15-05)


  
           但 聞 仏 名   
           二 苦 菩 名   
         除 無 量 刧   
     サ 
  生 死 之 罪   
 キリーク
      右志者為過去   
      サク
  大輔公尊霊出   
           離生死往生極   
           楽頓證苦提也   
     文応元年大才
庚甲
六月廿三日   


 6 東光寺阿弥陀三尊種子板碑
 15-06は月輪を伴うキリーク・サ・サクの阿弥陀三尊。「弥陀名号相続念(みだみょうごうそうぞくねん)  化仏菩薩眼前行(けぶつぼさつげんぜんぎょう) 惑与花台或授手(わくよけだいいくじゅしゅ) 須臾命尽仏迎将(しゅゆみょうじんぶつごうしょう)」という善道大師の「法事讃」から取られた偈と「右志者為覚歧大法師 往生極楽證大菩薩也」の願文がある。紀年号は「文応元年大オ庚申七月日」で「願主 敬白」がはいっている。現在石の節理から四つに分断されている。『玄同放言』の図でも縦に二分しており、江戸時代にすでに割れていたものである。総高一六三センチ、幅四三・五センチ、厚さ八・五センチ。

図19 東光寺文応元年銘阿弥陀三尊種子板碑(15-06)


           弥 陀 名 号 相 続 念   
       サ 
 化 仏 菩 薩 眼 前 行   
           惑 与 花 台 或 授 手   
 キリーク輪月    須 臾 命 尽 仏 迎 将   
           右志者為覚歧大法師    
       サク
 往生極楽證大菩薩也    
           文応元年大才
庚甲
七月日敬白 
願生 


 7 無量寿院阿弥陀一尊種子板碑
 無量寿院(大字常光別所)の34-01はキリークの阿弥陀一尊で蓮座の下に「文永九年壬申八月廿日」がはいる。
 蓮座の上に向いた花弁に対し、外側へ広がる蕚(がく)状部分は、花弁と同様に沈刻によるものと、本例のように副蕚状を呈するものと、線彫りによるものの三形式がある。沈刻蕚は蓮座の出現時から消滅まで一貫してとられる形式で、本来の蕚である。副蕚と命名したものは市域では正和五年銘の04-03からはじまっている。県内での傾向では鎌倉中期に多く、後期に減少し、南北朝には稀になっている。その他、市域の蓮座には41-01の線彫り形式と15-21の葉脈状に線をいれた蓮座がある。蓮座の葉脈状の表現は絵画ではよくとられる手法であるが、板碑ではやはり図像の南多摩郡浅川町の白山神社薬師如来図像板碑の一例のみである。

図20 無量院文永九年銘阿弥陀一尊種子板碑(34-01)


 キリーク蓮座 文永九年 
八月廿日 

図21 薬師堂建治二年銘阿弥陀一尊種子板碑(41-01)


          建治元年 
 キリーク線彫蓮座      
           二月日 

図22 『玄同放言』の(15-01)板碑の図

図23 東光寺不詳阿弥陀種子板碑(15-01)

図24 東光寺不詳阿弥陀種子板碑(15-01)部分


 8 東光寺阿弥陀一尊種子板碑
 東光寺(石戸)の15-07はキリーク一尊であるが、ラー点が孤を描いて上に伸び、初期荘厳体のキリークである。「諸教所讃(しょぎょうしょさん) 多在弥陀(たざいみだ)  故以西方(こいさいほう)而為一住(にいいちじゅん)」という『摩訶止観』の「第二補行」から取った偈がはいっている。本来「住」は「准」である。紀年号は「弘安元年戊寅五月日」である。高さ一五三センチ、幅四四センチ、厚さ五・五センチ。荘厳体キリークは四基に見られ、図26の35-01は最も発逹した三弁宝珠のキリークである。

図25 東光寺弘安元年銘阿弥陀一尊種子板碑(15-07)


          諸教所讃  多在弥陀  
 キリーク蓮座   弘安元年 
五月日   
          故以西方  而為一住  


図26 太子堂不詳阿弥陀種子板碑(35-01)


  キリーク蓮座   


 9 寿命院元応二年銘阿弥陀三尊種子板碑
 40-04は元応二年(一三二〇)銘のキリーク・サ・サクの三尊板碑で、光明真言が入っている。真言は呪(じゅ)、密呪(みつじゅ)、密言とも訳され、賛歌、歌詞、祭詞、呪文をさす語である。市域には三五基に真言が掲げられている。すべて梵字による真言である。掲げられる位置と行数は下半の紀年号の両側に四行に配するもの。月輪部分に配するもの。枠線内側で上部に二行に配するもの。枠線上部の内外に配するものがある。光明真言は二三字からなり、四行に配するものが最も多く二十五基あるが、休止符を入れて各行六字にするもの、最後の一字を二字分の長さでとり五字で調節しているもの、八・四・四・七字、七・五・五・七字による四行などいろいろである。04-04は一見各行六字であるが一字抜けてしまい、休止符を二字入れて調節している。真言の初出は40-04の元応二年であり、各時期に見られるが、鎌倉後期と南北朝期に多く紀年号の両側に入れない形式は室町中・後期になって出てくる。

図27 寿命院元応二年銘阿弥陀三尊種子板碑(40-04)


            オン ア ボ ギャ ベイ ロ 
        サ 蓮座シャ ナウ マ カー ボ ダラ
 キリーク蓮座    元応二年二月七日              
        サク蓮座マ 二 ハン ドマ ジンバ ラ
            ハラ バ リタ ヤ ウーン  


図28 地蔵堂(本町二)明応九年銘阿弥陀三尊種子板碑(08-01)


 日                                   
  キャ ベイ ロ シャ    ナ マ カ   帰命月天子本地大勢至     
  ボ            ボ          月 待 供 養    
  ア            ダラ サ 蓮座   足 机 □郎三郎   
  オン      キリーク蓮座       具     三郎二郎
  マ            ダ サク蓮座    三 前 左衛門四郎  
  二            ウーン           □□□郎   
  ハン ドマ ジン バ ラ ハラ バ リタ ヤ  明応九年庚申二月廿三日
 月                      為度衆生故普照四天下  




図29 薬師堂(大字高尾)文明十二年銘阿弥陀三尊種子板碑(06-02)


 ボ ギャ ベイ ロ シャ ナ マ   カーボ ダラ               
 ア                          サ 月輪連座 逆 道水  
 オン                 キリーク月輪蓮座  文明十二年庚子十月日 
 マ                          サク月輪連座 修 禅門  
 二 ハン ドマ ジンバ ラ ハラ   バ リタ ヤ ウーン ダ         




図30 阿弥陀堂正中二年銘阿弥陀一尊種子板碑(04-04)


          オン ア ボ ギャ ベイ ロ  
          シャ ナマ カー ボ ダラ   
 キリーク蓮座 正中二年九月十一日         
          マ 二 ハン ドマ ジンバ ラ 
          ハラ バ ヤ ウーン ダ ダ  

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