北本市史 資料編 古代・中世
第3章 城館跡・金石資料・仏像
第2節 金石資料
1 板碑
(七) 民間信仰板碑民間信仰は明瞭な宗派がなく、教団等も形成せず、聖(ひじり)などにより布教され、民間で信仰された様々な宗教・信仰を包括して言う。古代の貴族等に信仰されていたものが徐々に民間レベルに浸透してきたことが室町時代の板碑等で知ることができる。民間信仰ととらえないほうが適切なものも本項に含める。
1 早来迎の板碑
図10の40-21図像板碑で三尊早来迎の様を見たように、雲の流れる表現や、菩薩の姿勢でよりスピード感を表現したものが早来迎である。亡くなってすぐにどころではなく、臨終に間に合うようにとの願いである。薬師堂(大字北中丸)の27-01と27-02も早来迎の板碑である。27-01は主尊のキリークの蓮座が右へ傾斜している。さらに脇侍のサ・サクが平行ではなく、サが右下に位置している。両脇侍の蓮座も右下がりに煩斜している。これらは偶然傾いたものではなく、西方浄土より降りてくる動き、早さを梵字の三尊で表現したものである。27-02は蓮座が左へ傾斜している。蓮弁の上下幅が右端では短くして傾斜を強調しており、あきらかに意識的な傾斜である。通常とは逆傾斜であるが、大宮市の名号板碑にニ点左傾斜の蓮座が知られている。やはり早来迎を表しているものと解されている。日本では北枕の死者の右横に掲げるため、西にあたる左上から仏が舞い降りる姿を描くことに定着したが、中国や朝鮮の古来迎図は左向きが大半である。あるいは左向き図像を種子に置き換えた早来迎であろうか。
図31 薬師堂嘉元元年銘阿弥陀三尊種子板碑(27-01)
サ 蓮座 嘉元元年 | |
キリーク蓮座 | |
サ | ク蓮座 卯十月日 |
図32 薬師堂貞治年銘阿弥陀一尊種子板碑(27-02)
キリーク蓮座 | 貞治 |
2 月 待 板 碑
月待とは特定の月齢の夜に集り、供物を供えて月の出を待ちながら飲食をともにし、月を拝む行事である。碑面に「月待供養」と刻まれていたり。「帰命月天子(きみょうがつてんし) 本地大勢至(ほんじだいせいし) 為度衆生故(いどしゅうじょうこ) 普照四天下(ふしょうしてんげ)」の偈は『二十三夜待の大事』から取られた偈で、月待特有の偈であることから月待供養の為に造られた板碑であることが判明する。形式は様々で、本尊も含めてまだ信仰の形式が定まっていないことが判明する。月待を表示した板碑は四基である。主尊が阿弥陀三尊と胎大日の十三仏の二形式がある。13-02の延徳四年(一四九二)と08-01の明応九年(一五〇〇)銘板碑が阿弥陀三尊形式で「月待供養」を表示している。寛正六年(一四六五)銘の24-14と年不詳の15-14はアーンクを主尊とした十三仏種子板碑である。「帰命月天子…」の偈がはいっており、月待信仰と十三仏信仰とが習合している。28-022の十三仏板碑も月待信仰との習合したものであろう。
図33 横田家延徳四年銘阿弥陀三尊種子板碑(13-02)
四郎三郎 | □郎太郎 | ||||||
馬太郎 | 三郎太郎 | ||||||
日 | 月待 逆 | 彦三郎 | 太郎四郎 | ||||
蓋 | サ | 蓮座 月漣 | 足机 | 助二郎 | 太郎五郎 壬 | ||
キリーク | 蓮座 月漣 | 具 | 延徳四年十一月廿二日 | ||||
天 | サク | 蓮座 月漣 | 三前 | 妙賢 | 平内二郎 子 | ||
月 | 供養 修 | 道称 | 五郎二郎 | ||||
弥三郎 | 孫七 | ||||||
左衛門二郎 | 太郎二郎 |
3 念 仏 板 碑
念仏とは仏を思念することである。どの仏を念じてもよいのであるが、浄土教が阿弥陀如来の信仰を広め南無阿弥陀仏を唱えることにより誰でも極楽往生することができるという教えがひろまり、念仏といえば「南無阿弥陀仏」と唱えることを意味するようになったものである。信仰する者同志が集まって念仏するもので、月待信仰と同様に信仰形態が様々であり、それに応じて板碑の表現も様々である。市域の念仏供養板碑は二基である。一基はすでに見た図10の40-21図像板碑で「念仏供養」と表示されている。もう一基は小川・柳瀬両家墓地(大字下石戸下)20-03の阿弥陀三尊種子板碑である。「念仏〔 〕」と表示されている。
図34 小川・柳瀬家墓地文明十五年銘阿弥陀三尊種子板碑(20-03)
念仏 | 三郎 彦五郎 平八 | ||||
□ | 平蔵 五郎二郎 源次郎 | ||||
[ ] □金 | |||||
蓋 | 真 言 サ | 蓮座 月漣 | 足 | 二郎五郎 | |
キリーク蓮座 | 具 | ||||
天 | 明 光 サク | 蓮座 月漣 | 三 | □孫房 | |
駒五郎 左馬太郎 | |||||
文 | 明十五年 | 左近三郎 | 氷性 | ||
□ | 十月吉日 | 五郎平次 | 五郎因房 |
4 庚申待板碑
十干十二支で年・月・日を表わすと、六十回ごとに同じ干支の年・月・日が巡ってくる。その六十日に一度巡ってくる庚申の日に、その夜を眠らずに過ごして健康長寿を願う信仰が庚申信仰である。中国の道教に由来し、仏教、神道など様々な信仰が混淆している。市域の庚申供養板碑は四基である。市域最新の板碑として図4に見たように、板碑の最後は民間信仰板碑で終わっている。40-22,40-23の天文廿四年、05-01の永禄二年の三基が釈迦三尊で、図4の02-04が永禄十□年で釈迦一尊である。この四基が「申待供養」を表示している。その他後述する40-33の二十一仏板碑が申待である。天文四年銘の02-03が摩耗が著しく判読困難であるが釈迦三尊で申待の可能性が高い。39-01も40-22、40-23と同じ天蓋様式であり、申待の可能性が高い。
図35 寿命院天文四年銘釈迦三尊種子板碑(40-22)
源三郎 | ||||||
オン ア ボ ギャ ベイ ロ シャ ナ マ カーボ ダラ | け さ | 孫太郎 | ||||
道 順 | 助 七 | □四郎 | ||||
藤五郎 | □三郎 | □二郎 | ||||
日 | 奉申待逆 | 源四郎 | 二郎四郎 | 道 □ | ||
蓋 マン月輪蓮座 足机 | ・五郎 | 九朗五郎 | ||||
バク月輪蓮座 具 | 天文廿四年乙卯十一月吉日 | |||||
天 アン月輪蓮座 三前 | □□三郎 | □ 二郎 | 三郎五郎 | |||
月 | 供 養修 | [ ] | □ 二郎 | [ ] | ||
[ ] | 五郎三郎 | [ ] | ||||
[ ] | □□五郎 | [ ] | ||||
マ 二 ハン ドマ ジンバ ラ ハラ バ リタヤ ウーン ダ | 二郎 □ | [ ] | 六郎三郎 | |||
二郎五郎 |
図36 寿命院天文二十四年銘釈迦三尊種子板碑(40-23)
オン ア ボ ギャ ベイ ロ シャ ナ マ カーボ ダラ | 二郎七郎 | 九郎□□ | 七郎太郎 | [ ] | |
[ ] | 八郎四郎 | [ ] | |||
六郎三郎 | 七郎五郎 | 五郎太 | 彦六 | ||
日 | 奉申待逆 | 善 性 | 八郎三郎 | [ ] | |
蓋 マン月連座 足机 | 三郎六郎 | ||||
七郎 | [ ] | ||||
バク月輪蓮座 具 | 天文廿四年乙卯十二月吉日 | ||||
[ [ | [ ] | 二郎三郎 | [ ] | ||
天 アン月蓮連座 三前 | 七郎三郎 | [ ] | 妙 春 | [ ] | |
月 | 供 養修 | 五郎三郎 | 又四郎 | 妙 善 | [ ] |
[ ] | ひこ七郎二郎 | □□ | |||
五郎二郎 | [ ] | ||||
マ 二 ハン ドマ ジンバ ラ ハラ バ リタヤ ウーン ダ | ひこ三郎 |
5 十三仏種子板碑
十三仏は死後七日目毎に営まれる亡者供養の七回とその後の百箇日、一周忌、二年忌、七年、十三年、三十三年の合わせて十三回の忌日供養の本尊である。初七日から三年までの十回の忌月供養が冥府の十王とのかかわりになり、十王にいずれも仏・観音菩薩が配されて本地となり、残り三回は十王から在世の罪科の判断のすんだ亡者が、真に仏果を得て浄土に成仏するための冥福を祈る供養と説かれるものである。絹本等による画像十三仏が諸寺にすでに流布している時代であるが、板碑においては月待信仰と習合している例もあり、当時の信仰形態の詳細は不明である。市域には04-23、04-47、15-14、24-14、28-02の五基がある。24-14が寛正六年(一四六五)と紀年号の判る唯一のものである。04-23はキリーク、サ、サクの三尊のうち主尊の月輪として種子十仏を配した形式である。28-02は交名等が判読できない。種子配列のみ掲げておく 15-14は種子配列が異例である。15-14と同形式天蓋は県内で六基に見られ、比企郡都幾川村平・旧慈眼坊の修験との係わりを推測する。04-47は十三仏の未製品を台石に再利用したものである。
図37 東光寺年不詳十三仏種子板碑(15-14)
バン | 帰命月□□□□大勢至 | ||
サ 蓮座 | キリーク蓮座 | 足 | |
天蓋 | アーンク蓮座 | タラーク蓮座 | 具 |
サク蓮座 | バン蓮座 | 三 | |
アン | 為度衆生故普照四天下 |
6 二十一仏板碑
二十一仏種子板碑は、山王二十一社の本地仏を種子で表現したもので、庚申信仰により造立された板碑である。寿命院(深井)の40-33は小破片でわずかにナウ・アーク・ヤと三種子が残っているだけである。下七社のうちの三社の本地仏である。本来の種子配列はナウ・アーク・マとなるべきで誤記である。この種子配列の板碑は越谷市で三基、大宮市で一基発見されており、最初に誤記されたものをそのまま次々と写されたものと解されている。二十一仏板碑の分布地域は県東部地域とその接触している地域で、県内で二十基しか発見されていない。本市まで分布域が広がった。最も近い距離で見ると、菖蒲町との係わりで考えていくのが良い。
図38 寿命院年不詳二十一仏種子板碑(40-33)
ナウ月輪蓮座 | アーク月蓮座 | |
□三郎 | 七郎太郎 □五郎 | |
ヤ月輪蓮座 | 紗門 |
7 連 碑
二基あるいは二基以上を同時に建てるもので「双式板碑」とも言う。連碑の多くは亡くなった人の供養のために建てる順修塔と、生きているうちに自分自身の供養のために建てる逆修塔を同時に建てるものである。逆修塔は七分全得が信じられたものである。逆修塔は南北朝より室町後期まで十三基に表示小されている。市域で間途いなく連碑と断定できる例は、阿弥陀堂(大字高尾)の04-07と04-08の一組だけである。残念ながら04-07は断片となり、04-08は所在地不明である。04-08は額部が突出している。市域では三基に額部の突出がみられる。
図39 阿弥陀堂康永三年銘阿弥陀三尊種子板碑(04-08)
サ | 光明遍照 | |
出 | 十万世界 逆修 | |
突 | キリーク蓮座 | 康永三年王甲申二月十五日 |
部 | 念仏衆生 敬白 | |
額 | サク | 摂取不捨 |
図40 阿弥陀堂康永三年銘阿弥陀三尊種子板碑(40-07)
三年王甲申二月十五日 | ||
念仏衆生 | ||
サク | 摂取不捨 |
8 金泥入り板碑
種子や紀年号に金粉を膠で溶いた金泥を塗り、金色に輝くかせた板碑である。仏やその形姿を具現化した仏像は人間の姿をしているが、通常の人間を超えた存在であるから、超人間的・仏教的理想の境地を象徴する表現として「三十二相」という身体的特徴が考え出された。たとえば足のうらは偏平で大地に立つと地と足が密着する「足下安平立相(そくげあんびょうりゅうそう)」とか、眉間に伸ばすと一丈五尺の白毛が右旋して生えている「白毫相(びゃくごうそう)」とかである。三十二相のうちの「全身が金色に輝いている」という規定が「金色相」である。そこから金箔を貼った仏像が造られるのであり、仏を表す種子に金泥を入れるのも自然なことである。とともに、法名にまで入れて いること、また、金泥入り板碑が室町後期に集中していることから、もっと世俗的なきらびやかさが重視され、輝く仏に己の死後を託することが喜ばれ、流行したのではなかろうか。46-01と46-02は諏訪山南遺跡の竪穴状遺構から発掘調査で出土したものである。種子・月輪・法名に金泥が入っている。
図41 諏訪山南遺跡大永三年阿弥陀三尊種子板碑(46-01)
道□□ | |
キリーク蓮座 | 大永三年四月 |
禅門□ |
図42 諏訪山南遺跡大永五年阿弥陀三尊種子板碑(46-02)
妙□ 乙 | |
キリーク月輪蓮座 | 大永五年□月 |
禅尼 酉 |