北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第1節 土地と農民

3 荒川通流作場一件

88 寛保三年(一七四三)十二月 下石戸上村下沼村分け反別割合請取帳
  (下石戸上 吉田眞士家文番五五)
(表紙)

      寛保三年
  下沼村分ケ反別割合請取帳
    亥十二月
                  」
     覚
一下沼村分反別弐町八反四畝拾六分
    内弐反九畝歩秣場
 残て弐町五反五畝拾六歩割合
 右の通惣百姓立合割合無相違地所請取申候、尤秣場の義当分草立不申候ニ付、村方以相談入合立野ニ仕立、年々古田畑反別ニて割合飼場料ニ可致段相定メ置申候、重て少も違乱申間敷候、為後日連判致置申候仍て如件
 寛保三年
    亥十二月 
           作右衛門 ㊞
           (以下八八名略)

解説 この資料は、下沼流作場の諳取と秣場(まぐさば)利用に関する下石戸上村農民たちの連判帳である。
荒川は、その名のごとく秩父山塊の降水を合わせて一気に東流し、氾濫をくり返し沿岸一帯に大きな被害を与えた。そこで寛永年間(一六二四〜四四)に関東郡代伊奈半十郎忠治により河身の大変改が行はれ、久下村(現熊谷市)地先で流れを堰止め、南流させ和田吉野川から入間川へ導いた。その結果、新水路沿岸の被害が増大し諸村間の争いが絶えなかった。中でも寛保二年(一七四二)の大洪水は激しく、秩父郡長瀞町に残る『寛保洪水位磨崖標』からもその下流の惨状を窺うことができるが、吉見町新井家文書によれば「寛保二戌年の儀は利根川・荒川一つに相成古来より申伝も無之大水の由に御座候云々」といった惨澹たる状況であった。
この洪水の後、復旧作業や関係五か村による実測が行われ、各村へ古田畑反別高に応じ配分されたが下石戸上村分は二町五反五畝一六歩と秣場二反九畝歩が割り当てられた。しかし秣場は当分の間草も生えそうもない状況なので、一同相談の結果入会(いりあい)の立野(山林)に仕立て、伐採した樹木は反別に応じて配分し、飼場料とすることを申し合わせたものである

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