北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第2節 年貢の納入

1 年貢割付状

93 慶長十八年(一六一三)十一月 宮内村年貢割付状
  (宫内 大島隆三家文書三)
 
丑歳宮内孫右衛門分御年貢可納割付事

上田五町六反三畝拾三歩 此内四反歩 付荒
 残五町弐反三畝拾三歩
  此取弐拾八石七斗八升七合 五斗五升取

中田壱町九反四畝拾弍歩 此内五反歩 くさり
  残壱町四反四畝拾弐歩
   此取七石弐斗三升     五斗取

下田七反八畝拾九歩       
   此取三石壱斗四升四合   四斗取

中田弐町弐反壱畝廿六歩
   此取拾壱石九升五合    五斗取

下田四町六反六畝九歩 此内壱反弐畝十七歩 日損ノ引
 残四町五反三畝廿五歩
  此取拾五石八斗八升三合 三斗五升取

上畠九町四反七畝廿歩 此内壱反四畝十歩 新道ニ成
  残九町三反三畝六歩
   此取六貫五百卅三文   七十文取

中畠七町九反三畝十三歩
   此取三貫九百六十七文

下畠三町七反弐畝廿六歩 此内壱反四畝九歩 不作
  残三町五反八畝拾七歩
   此取壱貫弐百五十五文  卅五文取

下々畠弐町壱反廿三歩 此内壱町八反六歩 不作
  残三反拾七歩
   此取六十壱文      弐十文取

上畠五反八畝七歩
   此取弐百九十壱文    五十文取

中畠壱町六反八畝拾七歩
   此取四百弐十三文    弐十五文取

下畠拾三町弐反三畝拾壱歩 此内弐反壱畝歩 不作 
  残拾三町弐畝拾壱歩
   此取壱貫三百三文    十文取

下々畠五町三反六畝壱歩 此内三町六反三畝十歩 不作
  残壱町七反弐畝廿壱歩
   此取百七十三文     十文取

屋敷五反六畝壱歩
   此取五百六十六文    百文取

 米合六拾六石壱斗弐升九合
 
 永合拾四貫五百七十弐文

右如此相定上は霜月中ニ可有皆済、若其過於無沙汰ハ譴責を以可申付者也、仍如件

  慶長十八年
   丑十一月十一日  伊奈半十(花押)

            名主百姓中

解説 この資料は、慶長十八年(一六一三)宮内村孫右衛門分の年貢割付状である。
内容は、表題の次に田畑の等級別面積、年貢免除地とその理由、残分(課税対象地)、取(とり)(一反当りの年貢額で、このような方法を反取り法という)、各等級の年貢額の順に記載されている。例えば、上田五町六反三畝一三歩のうち四反歩は作付不能地として免除され、残る五町二反一三歩が課税対象であり、それに反当五斗五升の年貢額を乗ずると、合計二八石七斗八升七合がその年の年貢として賦課されることになる。以下同様に実際の検見に基づいて田・畑の順に記載され、最後に田畑の総年貢額(田は米、畑は永で表わしている)を掲げ、霜月(一一月) 中に皆済すべき旨が記されている。本資料の発給者は、幕府代官でのちに関東郡代となる伊奈半十郎忠治である。
また資料中の「付荒」とは、本来は高入地であるが大風雨・洪水等により石・砂利・深砂等が入り、変地して耕作困難な荒廃した土地をいう。「くさり」とは水害のため収穫なしの土地、「日損」とは旱害で収穫なしの土地、「新道ニ成」とは公共の道路建設や拡張のために潰された土地、「不作」とは耕作の困難な土地のことである。いずれもその年の年貢は免除されたが、後日利子をつけて返済するものが多かった。

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