北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第3節 産業と金融

7 質地証文

133 文化十三年(一八一六)十二月 高尾村甚七質地並びに質流地証文
  (石戸宿 横田善一郎家文害二)
   質地田証文の事
 甚七分
一下田五畝弐拾八歩    小池 善右衛門
   米弐斗三升七合三勺四オ
一下畑成六畝歩      同所
   永四拾六文八分
右は当子御年貢上納ニ差詰り、右田畑貴殿方江質地ニ入置文金三両弐分唯今借用仕候処実正也、但シ年季の儀は当子十二月より来ル卯十二月迄中三年季ニ相定メ申候、然ル上は御年貢諸役貴殿方ニて急度御勤可被成候、年季明候節ハ受兼候共、右出来の節は何拾ケ年過候共、右の田畑無相違御返可被下候、右地所ニ付親類組合ハ不及申ニ外より故障一切無御座候、為後日質地田畑証文依て如件
          高尾村
 文化十三年子十二月 地主 甚   七
           五人組弥   市
           親類 吉 五 郎
           組頭 新右衛門
           名主 重 治 郎
     石戸
      又 八 殿

     別紙書証文の事
右は文化十三子年御年貢御上納相詰り、前書の地面貴殿江金三両弐分ニて質地ニ入置申候、然ル所御年貢御上納差詰り、右地所江為打金弐両都合五両弐分ニて質地流二相渡シ相違無御座候、為後証仍て如件
          高尾村
 文化十四年     地主 甚   七
   丑極月
           親類 弥   市
           組合
           親類 吉 五 郎
  横田市場村
    武 八 殿
解説 年貢上納に困って田畑を質入れした農民が、年季明けに借用金を返済し田畑を取戻す「請返し」は容易なことではなく、その多くは質入れ地として相手方のものとなる例が多かった。
本資料は、高尾村の甚七が文化十三年(一八一六)の暮、年貢上納に詰って下田五畝二八歩の下畑成六畝歩(近年下畑となった畑)を石戸宿の又八に質入れして三両二分の金を借用したが、翌文化十四年十月には、質代金にさらに二両上乗せして計五両三分で質流れ地とし、改めて横田市場村の武八に渡したという二つの証文である。年季内に質流れ地にすることは実際には売払うことと同じであり、よほど年貢の上納に困っていたのであろう。こうして農民は田畑を手放し、小作人に転落して、かつての自分の田畑を小作したり、村を捨てて都市へ流れていったりした。
なお、「文金…」とは元文元年(一七三六)に鋳造された小判で裏に「文」と楷書の刻印があるところからその名がある。

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